U.医療ソーシャルワーカーとエコロジカル・アプローチ
医療ソーシャルワーカー
歴史
医療社会事業は産業革命以後の英国において始まった。産業革命による社会の工業化は都市への人口集中を促し、不衛生なスラムを生みだし、失業者の増加を引き起こした。それはとりもなおさず貧困患者の増加に直結する。当時の施療病院にはそうした貧困層の患者があふれかえり、対応に苦慮していた(小田・竹内・平田,1997)。
そこで1895年、ロンドン慈善組織協会(COS)総幹事チャールズ・ロックの働きかけによって王室施療病院に社会事業部が設立され、当時COSの書記をしていたメリー・ステュアートが患者の相談調査にあたったのが医療社会事業の始まりとされる(中島,1990)。
ステュアートの業務は当初、医療費の支払える患者の無料診療を防ぎ、救済の必要のある患者に救貧法の利用を促すための選別であったが、調査の結果、真に無料診療を必要とする患者があまりに多いことが判明した。患者の生活状況が悲惨であることを知った医師達は医療ソーシャルワークの必要を認め、彼女は患者の選別ではなく相談活動をおこなうことになったのである(中島,1964)。
アメリカでの医療社会事業の始まりも産業革命以後である。英国と同様に施療病院では貧困患者の増加が問題となっていた(小田・竹内・平田,1997)。
1905年、マサチューセッツ総合病院のリチャード・キャボットが臨床医の立場から、有効な診断と治療をおこなうために、医療に福祉の精神と方法を導入した。ソーシャルワーカーとして採用されたペルトンとキャノンは、医療の背景としての患者の精神的状況、身体的環境、精神的環境についての情報を医師に提供し、患者の全面的治療に貢献した。医師の医学的な診断が忠実に実行されるのは、これを実行できる社会的な条件が患者側に整っていなければならないからである(中島,1990)。
日本では明治に入ってから、上流階級に属する婦人達による救治会が精神病院で貧困患者のための生活相談を始めたのが医療社会事業の始めといわれる(小田・竹内・平田,1997)。
しかし日本の近代的医療社会事業が始まったのは済生会本部病院と聖路加国際病院においてである。いずれも上述のキャボットの影響を受けている。
済生会の生江孝之は1919年に渡米し、キャボットの病院社会事業を見て日本における必要性を実感した。だが、当時は病院の経営としては初めてのことでなかなか開設できず、1926年になって病院外の独立機関として済生会社会部を設立した。そこではケースワークをおこなって医師の診断・治療を助け、一時保育所を設立し、患者の慰安のため余興を行い、売店において日用品・花の廉売をするなど、日本の病院では初めての試みがなされた(中島,1990)。
済生会は日露戦争による経済的困難と資本主義の発達に伴う生活困難者の激増に対処するための施薬救療事業を目的として設立された病院であり(中島,1990)、そこでの社会事業の発生形態も施療的発生として位置づけられている(橘高,1997)。
聖路加国際病院では1929年に浅賀ふさを担当者として医療社会事業が始まった。浅賀はキャボットが医療ソーシャルワークを導入したマサチューセッツ総合病院でキャノンから専門訓練を受けた日本で最初の人である(橘高,1997)。浅賀は結核相談所を開設し、社会的問題を抱えた貧困患者を対象に予診をし、問題発見をし、医師に提供するとともに、療養の問題等についても相談援助した。あわせて、保健婦と協力して家庭訪問も活発におこなった(小田・竹内・平田,1997)。聖路加国際病院での社会事業の始まりは、済生会の施療的発生と対比して、診療補佐的発生と位置づけられる(橘高,1990)。
戦後の医療ソーシャルワークの歴史は普及期(昭和20年代)、専門性発展期(昭和30年代)、拡張期(昭和40年代)、制度化推進期(昭和50年代)と区分されている(阪上,1985)。この区分に沿ってそれぞれの時期における特徴を振り返る。
医療社会事業の制度的な普及が図られたのは第2次世界大戦終了後、GHQの勧告、指導によってである。1947(昭和22)年に占領軍兵士への結核・性病の蔓延を防ぐ意図で保健所法が改正された。
保健所に始まった医療社会事業係の設置は日赤病院、済生会病院、国立結核療養所等にも広まっていった。当時はアメリカの医療社会事業をモデルとする医療チームの一員としての医療社会事業が強調されていた。しかし、現実には医療保障制度の不備をカバーするために結核患者・長期療養患者・低所得患者を対象に医療の確保、医療費・生活費の保障をおこなうことが業務の大半を占めていた。
昭和30年代は国民皆保険の実施により国民医療費は急増、国家予算の中の社会保障費が大幅に削減され始めた時期である。保健所にも保健所医療社会事業係の配置転換、兼務化として影響が見られた。病院、療養所での医療社会事業は増加して行くが、「患者集めのセースルマン」「便利屋」などと称され、業務内容がまちまちとなっていた(橘高,1997)。
そのような状況下でも昭和40年代になると、医療問題(神風診療、無為地区、差額診療、過密入院、医療保険の赤字)の顕在化、医療技術の進歩による疾病構造の変化(伝染性の疾病から成人病、精神疾患、アルコール依存、難病、公害病)がおこり、この時期の医療ソーシャルワーカーはより複雑でより多様な生活問題についての相談活動もおこなうようになった。医療ソーシャルワーカーの相談事業が確立されてくるのもこの時期であるといえる(小田・竹内・平田,1997)。
昭和50年代に入って医療ソーシャルワーカーの生活相談は二つの意味で変化する。
成人病を中心とする慢性疾患がいよいよ増加し、老人人口の増加とあいまって、入院・外来を問わずに老人患者が多くなり、社会的入院の問題があがってくる。また精神疲労、不安神経症の増加も問題となってきた。
また、医療改革・福祉改革を内容とする社会保障改革がおこなわれ、高齢社会をにらんだ効率化政策のもと、高齢者が入院とか施設ではなく家族や地域住民によりケアを受けるシステムが目指されるようになった。地域医療、地域福祉の方向はそのためのものである。
そのような情勢下、医療ソーシャルワーカーの業務の中に退院促進という現実的な役割が大きくなってくるという変化が起こった。しかし、医療ソーシャルワーカーは退院促進を退院後の生活相談として受け止め、可能な限り在宅生活ができるように援助をおこない続ける。在宅が困難な場合はそれに代わる退院先を探す仕事もおこなうことになる。
第2の変化は退院援助に伴い、退院後に地域で安定した生活ができるようなシステムを地域に作り出す実践が求められてくるようになったことである。
つまり、この時期には、それまで確立されてきた個別の相談業務が地域の問題として解決するべく動きを作り、地域にシステムを作っていくような、総合的な実践があらわれてくる。
必要に迫られて総合的・実践的な発展が進む一方で、この時期にはアメリカの危機介入理論やエコシステム理論が輸入され、その枠組みで説明しようとする傾向が見られるようになった(小田・竹内・平田,1997)。これは現在でも継続されており、日本における政治的、経済的、社会的情勢のもとに積み上げられてきた生活相談の形態が、その実践に即した理論を作り上げることができないまま、今日に至っているということになる。
役割
疾病に伴い患者の環境は変化し、さまざまな問題が生じる。それは主に、疾病に対する不安、治療のための経済的負担、家族や地域社会との関係における軋轢などである。昭和49年度厚生省科学研究班(1976)は、このような患者や家族の心理・社会的問題を生活上の諸障害としている。そして、医療ソーシャルワークの目的を、対象者(患者やその家族)の生活上の障害を除去、緩和または解決することを援助し、対象者の健康および福祉の増進を図ることと定義している。
医療ソーシャルワーカーの役割については広義と狭義がある。阪上(1983)は「医療チームの中にあって、患者・障害者が、疾病・障害の治療やそこから派生する生活問題に対して、できるだけ自主的な決定に基づいて医療・福祉サービスを活用し社会参加を実現することができるよう援助すること、患者・家族のチームワークを作り上げること、関係職員だけでなくボランティアとの協力関係を作り、患者・障害者の自立援助のサポートシステムを確立すること(P.274)」と定義している。これは広義の役割として位置づけられる。そのため医療ソーシャルワーカーは、心理・社会的問題を持つ患者やその家族に対し、基本的人権の保障という視点に立って、患者の療養生活の安定やその他の困難の軽減・解決を援助し、さらには機関全体の全人的医療の実現に貢献する者とされている(笹岡、1995)。
それのみならず、医療ソーシャルワーカーは病院組織内部の諸問題解決にもあたる。これは狭義の役割として位置づけられる。そこでは種々の連絡調整を図りながらオーガナイザーとしての役割を果たしている(白石、1981)。さらに、医療ソーシャルワーカーは保健・医療の管理組織体制とそこに属する人々と患者・家族双方の立場をしっかりふまえて、保健医療供給サービス全体のあり方を調整していく代弁者と調整・調停者としての役割を持つとされている(杉本、1992)。
医療ソーシャルワークは他分野におけるソーシャルワークにはない特徴がある。それは医療ソーシャルワークが医師の医療行為と切り離して進めることができない点である。すなわち、医療ソーシャルワーカーは業務を開始する際、意思の診断・治療方針・治療内容のあらましを理解した上でなければ援助方針を立てることができない(柴山、1979)。しかし方法・技術の点では医療ソーシャルワーカーはケースワーク、グループワーク、コミュニティ・オーガニゼーション、ソーシャル・アクションといったソーシャルワークを応用しており、他分野のソーシャルワーカーと変わるものではない。杉本(1987)は医療ソーシャルワーカーのアイデンティティにとって「社会」の持つ意味が大切であると述べている。それはソーシャルな視点を指しており、ソーシャルワークの基本原理である。なぜならば、「社会的」の概念は幅広く包括的で人の生活全体とその相互の関連に及ぶものであり、そしてソーシャルワーカーの業務はすべて形成された社会関係を通して実践される「社会的」役割であると定義されているからである(杉本、1987)。
医療機関とソーシャルワーカー
医療機関は医療法第1条の5によって「病院」と「診療所」とに分けられている。同法によれば、病院は医師(歯科医師)が公衆(特定多数人)のため、医業(歯科医業)を行う場所であり、患者20人以上の収容施設を有するものを指している。診療所はベッド数が0か19床以下の患者収容施設を有するものを指している。
一般的に病院は「単科病院」「総合病院」という組織形態で呼ばれる。総合病院は、医療法第4条において、100床以上の患者収容施設を有し、診療科中に内科・外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科を含み、都道府県知事の承認を得た病院であると位置づけられている。病院組織は原則として4つの部門によって構成される。その部門とは、1)診療部門、2)診療協力部門、3)看護部門、4)事務部門の4部門である。また、病院組織は病院長をトップに置き、その下に各部の総括責任者として副院長、婦長、事務部長が配属されるという構造を持っている。
また、別の視点から病院の構造を捉えれば、我が国の病院は医師を除いて職能部門別構成となっている場合が多い。すなわち、看護部・薬剤部・臨床検査部・X線部・給食部・事務部などが一般的な職能部門であり、その他にMSW(医療社会事業)・リハビリテーションなどの部門を持つ。すなわち、現在我が国の大部分の病院は、医師グループにおける診療科別に細分された古い縦型組織と他の職能グループの横型とも言える部門別の新しい組織との複合組織を持つ。
しかし病院の管理体制はトップダウン方式を採る一般企業とは異なる。病院において、トップは総括的な運営管理の方針を意志決定するとしても、それを病院各部の具体的特殊事情として、組織の末端に位置する医師一人一人が主治医として診療上の決定を行い、それに基づく指示が他の協力的職能部門に出されることによって、病院の組織医療が実際に展開している(杉、1983)。この状況を白石(1981)は次のように説明している。すなわち、一般企業組織内の各部門は並列関係にあるが、病院組織内の各部署は医療体系のもとで医局を頂点にいわばヒエラルキーを形成し、直列的関係にある。それが部署ごとの排他性やセクショナリズムをもたらし、問題発生の温床ともなっている。さらに、タテ社会特有の人間関係が各部署の業務運営、さらには病院全体の医療業務遂行の上で支障をきたす状況を生みだしている。
院内における構造のゆがみは何もスタッフ間にかぎったことではない。医師は患者の健康と生命という絶対的価値を左右する、治療という専門職的権限を持つ。さらに、患者の専門的知識の欠如と専門家への依存性は医師との間の権威の格差を一層大きなものにしているのである(杉、1983)。
その上、現代の医療をめぐる情勢は複雑化している。医学・医療技術の発展により疾病構造が変化し、そこから医学を超えた新たな社会問題が生まれている。1997年国会において脳死・移植法案が可決された。残念ながらこの法案はすべての国民に関係のあるものでありながら、国民の間で十分なコンセンサスを得ないままに成立してしまっている。
ある人の脳死が判定されるのは医療機関においてである。その脳死を受け入れるかどうかは本人の意思と家族の判断に委ねられるが、どちらにしても心理的・社会的・経済的な困難が家族にふりかかる。ところが日本の医療現場では医師が支配的に振るまい、医療ヒエラルキーの中で底辺にあたる患者家族は自由な意志決定が妨げられる事が多い(
木勝(ぬで)島、1991)。治療の中止や移植の可否の判断をするにあたって、偏りのない多様な角度から十分な情報を提供し、相談相手となれる存在が不可欠となる(木勝(ぬで)島、1991)。脳死・移植の他にも、難病、慢性疾患など深刻な心理・社会問題が発生する可能性を持っている疾患は他にもある。疾患を契機として数多くの社会的問題を抱え込むことになった患者家族にとっての完全な医療というのは、医療技術的にはもちろんのこと、心理的・社会的・経済的にも必要なときに、どんな人でも、安心して受けることのできる医療のことである。つまりは医師・看護婦といったメディカル・スタッフだけでは完成されない医療が求められているのである。しかしながら、日本の医療は制度も中身も極めて複雑で、普通の人には理解しがたいものになっている。ともすれば患者の人権侵害がまかり通る伝統的な医療体制の中で、患者家族の相談相手になれるコ・メディカルとしての医療ソーシャルワーカーはますますその必要性が高まっているのではないだろうか。
ライフモデルとエコロジカル・アプローチ
1970年代以降、ソーシャルワークの方法論が見直され、方法論の統合化、システム論の導入といった動きが見られた(中村、1990;立木・谷口、1994)。その動きの中で、人間の抱える問題状況を説明する際、従来用いられてきた医学・疾病・病理学的な特性表示から転換して、生態学的(エコロジカル)な特性表示を用いる概念が登場した(太田、1990;森野、1990;中村、1990)。これがライフ・モデルである。
ライフ・モデルはGermain(1973)が生態学(エコロジー)の視点をソーシャルワークに導入し、提唱した実践モデルである。生態学は、有機体と環境との相互依存を強調しており、それはソーシャルワークのPerson-in-environmentの概念のメタファーである(Germain,1973;Germain & Gitterman,1996)。人間の場合、環境との交換相互作用(transaction)が行われる場は「生活」である。したがって、生態学の視点で人間生活を擁護するソーシャルワークのモデルは、ライフ・モデル(life model)と呼ばれている(小島、1992)。人間と環境はそれぞれが互いを形成し、影響し合っているという視点から、ライフ・モデルは人間と環境そのもの、人間と環境の交換相互作用について説明する諸概念で構成されている。
生態学において、有機体の生存原理は交換相互作用にある(岡本、1990;小島、1992)。その関係を活用して自力で問題解決を遂げていく力をGermainは「対処能力」と呼び、「環境」との中間面(interface)に生きる「人間」の能動性を支持していこうとするソーシャルワークの概念の中心に据えた(小島、1992)。これはGermainとGittermanの言う関係性の概念を説明するものである。しかし、人間がたとえ「対処能力」をもっていても、対面する「環境」が「人間」のニーズに応えうる「応答性(responsiveness)」を持たない場合は、それが人間を寄せ付けないか、住む人間に不便・苦痛・悪影響を与えるという結果になる(小島、1992)。これはGermainとGittermanの言う生活空間(habitat)と適切な環境(niche)の概念を説明するものである。
ライフ・モデルにおいてソーシャルワーカーは、人間と環境、それらの交換相互作用に注目して、そこに存在する問題を明確化し、その問題を引き起こしているストレッサーを評価して介入を行う。介入においては、両者の交換相互作用を通じてクライエントの「対処能力」の発達をはかり、同時に環境の「応答性」の強化に刺激を与えることが課題となる(小島、1992)。つまり、個体の生きている場としての「生きている生態系」全体を視野に入れ、個体の「うまく生きる力(competency)」と「うまく生きられる場(niche)」の醸成をはかっていくのである(立木・谷口、1994)。また、ソーシャルワーカー自身についも、援助を通して専門家としての力量を発達・強化していく。すなわちソーシャルワーカーは、援助過程おけるクライエントの力量との交換相互作用を通して、自身の専門的価値・知識・自己覚知を専門家の力量(professional competence)に置き換えていく作業を同時に行っているのである(小島、1992)。
エコロジカル・アプローチと医療ソーシャルワーカーのバーンアウト
森野(1990)によれば、従来、保健・医療の場におけるソーシャルワークは、医学モデルによって社会診断を行い、機能不全を改良し、治療するという考え方に基づいて行われていた。しかし、医学モデルは個人のみに注目し、社会的背景を考慮しない点において、現在の医療現場ではその視点から患者の生活問題を捉えることに限界が生じるようになった。その結果、上記のライフ・モデルに基づき、患者(クライエント)と環境との相互作用に注目して援助を捉えるようになってきたのである。
エコロジカルな視点を用いると、患者とその環境との相互作用は次のように捉えることが可能である。つまり、ラザルスとフォークマン(1991)の理論を応用すると、クライエントの貧困、失業、障害、疾病といったストレッサーに対して、社会資源(サービス、制度・政策、クライエントの対処行動など)が十分に存在しないとき、ストレス(cf., 社会関係の不調和、社会関係の欠損、社会制度の欠陥;岡村、1983)が生じると考えられる。すなわち、ストレッサーと社会資源とのバランスが崩れた時にストレスは生じる。そのストレスを援助の対象と捉え、ストレッサーと社会資源とのバランスを保つことを目的として如何に介入を行うか、という視点に基づいてソーシャルワークの方法論は議論が進められてきた。
しかし、医療ソーシャルワークにおけるライフ・モデルの活用は、クライエントとその環境との相互作用に注目し、医療ソーシャルワーカー自身と医療現場という環境との相互作用についてはほとんど議論されてこなかった。
日本では、急速に医療システムが複雑化すると共に、ME(medical electronics)技術に代表される超近代的な医療器材・機器等の導入、高度な医学知識・技術の発展により、複雑な治療やケアを要する臨死の患者や多様な心理社会的問題を持つ慢性・難病患者が増加している(河野、1986)。このような患者の援助は長期にわたって情緒的なエネルギーが消費され、また、医療ソーシャルワーカーは身分法がないという不安定な環境のもとにあるためにはかり知れないストレスにさらされ、バーンアウト状態に陥る危険性が非常に高い。
バーンアウト(burnout:燃え尽き症候群)とは、「モーターがバーンアウトした(焼き切れた)」とか、「電球がバーンアウトした(切れた)」というような日常会話に由来している(田尾、1989)。これが転じて、過度で持続的なストレスに対処できず、張りつめられていた緊張がゆるみ、意欲が急速に萎えてしまったような時に表出される心身の症状について用いられるにいたった(田尾、1989)。
最も古いのはFreudenberger(1974)であるが、孤立的関心、自己防衛のために他者と人間的に接触しようとしない傾向など、職場や職場への不適応に由来する鬱症状はそれ以前から散見されていた(田尾、1989)。1970年代後半になってから、社会福祉の現場におけるバーンアウトが関心を呼び、児童、公的福祉、精神保健のソーシャルワーカーについて論文が数多く現れるようになり、1980年代に入ってこの問題についての著作が出版され、バーンアウトという言葉が一挙に一般的になったのである(窪田、1992)。
70年代から関心を呼んでいたにもかかわらず、バーンアウトについて正確な定義は与えられていない(Smit,1990)。Freudenberger(1974)によれば、「疲れ切ること、もしくはエネルギー、資源への過度の要求のために疲弊すること」であり、PerlmanとHartman(1982)によれば、「情緒的・肉体的な疲労、生産性の低下、過度の脱人格化(overdepersonalization)の3つの要素を持つ持続的な精神的ストレスに対する反応」とされる。しかし、Maslach(1976)は特に保健医療従事者に関して、「長期間にわたり人を援助する過程で、心的エネルギーが絶えず過度に要求された結果、極度の心身の疲労と感情の枯渇を主とする症候群」と定義づけしている。
バーンアウトに関する研究は、社会的ニーズの変化とソーシャルワーカー、心理療法士、看護婦、教師などのヒューマンサービス従事者の急増の時期と不可分の関係にある(Perlman & Hartman,1982)。バーンアウトが問題視されるのは、いったんバーンアウトに陥ると患者に対する医療ケアが機械的・表面的となり、血の通った温かい治療やケア、心理社会的理解に基づいたケアが行えなくなるといわれているからである(Maslach & Pines,1979)。つまり、保健医療従事者がバーンアウトに陥ると、意欲の喪失が見られ、専門職としての仕事ができなくなる。そして自分自身を道具として、複雑・困難な医学的・心理社会的問題を持つ患者家族に対して心のふれあいを通して直接援助する医療ソーシャルワーカーにとっては、患者家族に対して機械的・表面的なかかわりに終始していては失格なのである。またバーンアウトは個人にとどまらず、周囲にも伝染することが知られている(Johnson,S.H.,1982)。そうなればそれが直接組織のパフォーマンスの質を規定することになり、患者家族に対して好ましくない影響を与える(田尾、1989)ことはもちろん、未だ社会的な認識が低い日本の医療ソーシャルワーカーに対して悪いイメージが固まってしまいかねず、医療ソーシャルワーク全体の将来に対してマイナスとなる可能性がある。
しかし、医療ソーシャルワーカーを取り巻く環境は前述のようにストレスに満ち、「画一化」「管理社会」「ワーカホリック」に象徴される日本人の特性もある。「頑張れ」「努力だ」の精神論ではなく、医療ソーシャルワーカーとその環境についてあらめて見つめ、何が医療ソーシャルワーカーのバーンアウトの原因となっているのか、ストレスフルな環境でどのような対処資源がソーシャルワークを継続させているのかを明らかにする必要性があろう。