【2】共感について
悲しい映画を見て、もらい泣きをしたり、子供のはしゃぐ声に何となく明るい気分になったり、仲間が出場している試合では、つい手に汗を握るといったことは日常よく経験することである。人と人とがかかわりあいを持つ場合には、そこにかならず何か通いあうものがあるといってよい。
人間関係の中にあって、お互いに相手を理解するためには、コミュニケーションをつうじて頻繁に情報を交換することが必要である。この場合、情報は論理的なものに限らない。たとえば、きわめて事務的な話し合いの場合でも、聞き手にこれは確信のある内容だと思わせるのは、話の論理はいうまでもないがそれ以上に、身振り、態度、表情、言葉のイントネーションなど、いわゆる非言語的な方法を通じて、話し手の確信の感情が伝えられる結果である。情報が理解できたというためには、それがモールス信号や活字にされても理解できる部分と直接相手にあってわかる部分とがあるようである。後者は言外の手段を通じて伝えられる感情のコミュニケーションが重要な役割を持っていることを示している。
さて、共感という概念はあいまいで多義である、その語源と翻訳に関係しているようである。 共感に関する概念は、リップス
(Lipps,1909)のEinfuhlung(感情移入)が源とされることが多い。その英語訳が、Empathyといわれている。日本語訳はEinfuhlungを(感情移入)、 Empathyを(共感)とすることもある。また、英語にはこれと類似語にSympathyがあり、この日本語訳としては(同情、同感)としたり、また(共感)とする場合もある。訳語の混乱の上に、共感の定義内容に関する多様さが、さらに問題を複雑にしている。即ち、感情移入の元来の意味はこちら側の感情が相手側に反映されることである。こちら側の感情が先行し、その結果相手側に同じ感情を認知することである。これに対し、共感を相手側の感情が先行し、その結果こちら側に同じ感情が誘発されることと考えることもある。ここで、共感と同情の区別を書いておく。共感とは、文字通り相手と共にする、つまり相手の内なる立場に立って、相手が考え、思い、感じていることを、同じように感じとり理解することをいう。しかも、相手との間には適当な心理的距離を置きながら相手の感情に巻き込まれないようにしなくてはならない。さらに、相手に対する共感的な理解を示すためには、主観的、情動的な理解だけでなく、客観的、知的な理解もあわせて必要となる。一方、同情とは、相手と同じような情を持つという意味ではあるが、相手の立ち場に立って理解するというよりも、自分の側から、自己の体験や価値観とった枠組みを持って、相手の気持ちなり考えを推しはかろうとするものといえる。したがって、相手が直面している問題や経験している事柄に対して、相手が抱いている感情なり思いはこの様なものだろうと推測のもとに、自分の感情や思いといったものを相手に投影しているにすぎない。
ところで、リップスは、心理学は個人意識の学であるとした上で、現象の認識の仕方を問題としている。
そこでまず、認識の種類をその対象により、物について、私自身によって、他者の自我についての3つに分け、3番目の他者の自我についての認識の源が感情移入としている。この他者に対する自我の感情移入は、対象の知覚と同時に知覚者に生じるのであり、これは本能に基づいて起こり、これが、人と人とを結びつける機能を持ち、社会関係を作り出す基本であると論じている。この機能については、春木(
1975)やホフマン(Hoffman,1977)も指摘している。リップスは実験心理学者ではないので、実験や調査によって感情移入を明らかにしようとはしていない。しかし、感情移入は、1
.対象の知覚に基づく 2.観察者自身の生活要素を土台とするが、外部から観察者に強制された意識(感情)体験であり、3.あくまでも対象の属する物として、観察者に体験される、とする点が、今後の共感の実証的研究に反映されている。共感の実証的研究は、
1960年代に入ってから始った。それを以下に記述しておく。T)学習ないし行動理論的アプローチ
バーガー(
Berger,1962)は、「代理的喚起による条件付け」の中で、「ある人(遂行者)の情動反応が他の人(観察者)の情動反応を誘発し、しかも二人の情動反応が同種の反応ならば、遂行者と観察者の関係は共感的である」と定義し、情動反応が異なる場合は、快・不快の組み合わせによって、妬みやサディズムにあたるとしている。この共感の定義は、彼が共感を代理性の古典的条件反応であると考えていることによる。即ち、ある刺激のもとで、遂行者(P)に無条件刺激(UCS)が与えられ、それに対して遂行者が無条件情動反応(UER)を示したとき、観察者(O)は遂行者のUERに対して、代理的に情動反応(ER)を喚起され、共感反応が生じる。その際に重要なのは、遂行者のUERによって、観察者がERを起こすことである。同様に、佐藤(
1967)は、行動理論的アプローチから、共感とか模倣は、互いに出会った二個体における顕在的な一致的反応の生起であるとする。彼は、モデルの情動的レスポンデント反応が刺激になって、観察者に情動的レス本デント反応が生じることを広義の共感と定義している。そして、モデルの反応(観察者にとっては刺激)と観察者の反応との結びつきによって、生得的共感と獲得的共感に二分する。このうち、獲得的共感反応が生じるためには、観察者が同様な刺激によって、自分自身が情動反応を体験していることが前提となる。なぜなら、そのような自己の体験は、反応フィードバック二よりその際の刺激と情動反応とは条件づけられているはずであり、その上で、モデルの反応(刺激)は潜在的な共通反応に媒介されて自己の内的刺激の般化刺激になると考えられる。その結果、モデルの反応(刺激)は、条件刺激として機能し、共感反応を誘致すると考える。以上、条件づけないし行動理論からのアプローチは、共感を1
.古典的(レスポンデント)条件反応と考え、さらに2.遂行者(モデル)情動反応と考えるという特徴がある。しかし、モデルの反応を単なる反応と知覚するのか、それとも情動反応と知覚するのか、あるいはモデルへの
UCSやモデルの顕在的な反応(UCR)のどの面が、観察者の情動反応のCSないし、UCSになるかは,バーガーにおいては観察者(O)の認知の問題であり、佐藤においてはOの過去の学習の問題とされる。U)発展的アプローチ
ホフマン(
Hoffman,1977)は、共感の定義は、他者の感情や思考などに関する認識の問題であると考える認知的発想と、他者に関する代理的感情反応と考えるものとに二分できるが、両者は相互作用があるとしている。彼の関心領域は後者にあり、「共感は、観察者又は観察者の置かれた状況に対する直接の反応ではなく、他者についての代理的反応として、観察者に生じた感情である」と、定義する。そして、定義の中心は、代理的感情喚起の過程であり、観察者の反応の真実性、即ち、モデルの感情との一致の程度と、反応喚起の手がかりの型とは定義に含まれるべき性質のものではないと考えている。なぜなら、例えば、真実性は年齢とともに増してくると考えられるので、発達研究の変数として取り上げるべきものと考えている。このような見方に立って、ホフマンは共感的悲しみを例に、共感反応の発達段階について述べている。
段階 |
年齢 |
反応 |
1 |
生後1年 |
不快の感情と自分の身体反応から生じる刺激の融合、ぼんやりと知覚された他者とその状況との融合などから全体的な共感的悲しみ反応を示す。 |
2 |
1〜2歳 |
初めて共感的悲しみの能力を持つようになり、自分ではない他人が被害者であると意識し始める。しかし、まだ、自分の内的状態とが区別できていない。 |
3 |
2〜3歳
4歳 |
他人の感情や思考が、時には自分と違っていること、他人の見方や感じ方がその人の欲求や事象の解釈に基づいているらしいことを自覚しはじめる。 適切な情緒を伴って反応し、単純な場面での他人の喜びや悲しみのサインを見分けられるようになる。 |
4 |
児童期後半 |
一時的な、その状況に依存した悲しみだけでなく、他人の一般的な悲しみの状態のイメージによっても共感的に反応できるようになる。 |
(
Hoffman,1977 共感反応の発達段階)以上の段階を経て、共感的能力は発達すると考えている。彼の理論は、年齢に伴う変化、認知能力の発達、情緒や動機過程の成長などといった、幅広い発達的観点に立って共感を捉えている。