序説
音楽と音楽療法
近年,カウンセリングや心理療法は,身近なものになりつつある.欧米では,精神障害者に対してより,むしろ普通に生活をしている一般の人々に対して行われるカウンセリングが浸透している.日本でも,一般の人々のこころの問題が注目されつつあり,その対処法として,カウンセリングの一般化と普及が叫ばれるようになった.たとえば,日常のストレスの問題や,病院での入院患者や手術前の患者に対するこころのケア,いじめ問題などの青年期におけるさまざまな悩みや葛藤に対するこころのケア,また離婚人口の増加に伴うこころのケアなどである.しかし,欧米に比べると人々の関心も薄く,まだ十分に研究がなされていないものも多い.音楽療法もその一つである.音楽療法はそれだけで使用するより他の方法とうまく組み合わせて使用することによってその効果が飛躍的に伸びることが証明されている(渡辺,1988).つまり,音楽という要素を取り入れることでセラピーにおける援助的要素の効果を上げることができるのである. そこで我々は「音楽療法における音楽の補助的効果」について注目することにした.
音楽療法は古くから欧米の研究者たちによって注目されてきたセラピーの方法の一つである. 欧米では,第2次世界大戦後よりその科学的研究が始まり,音楽療法士の養成課程を設ける大学も数多い.現在日本では,音楽療法士の制度はまだ確立されていないが,一部の病院や施設などで独自に音楽療法を試みるところも増えてきたようである.また音楽療法に関する全国組織が統一され,また,公的機関としては初めて,奈良市において音楽療法士の養成,資格認定へ向けて動き始めている(松井,1995).このように日本においても欧米に比べるとまだまだ遅れはとっているものの近年ではストレス問題が多く取り上げられる中で,「音楽」によるストレス緩和の作用など少しずつ注目され,今後の研究が進められることが期待されている.このように注目されるに至るまでには多くの研究者たちによって音楽の発生からその文化的作用にいたるまでの説が唱えられてきた(Leimer,1991). たとえば, 私達は日々の生活のなかで,音楽を聴きながら気分の発散,沈静,悲哀,快楽などを感じる人生を送っている.それゆえ,心身の疲労や疾病を患っているときにも,音楽が癒す効果を持っているのではないかと考えるのである.つまり音楽は我々の文化生活に不可欠であり,他の芸術と同様かもしくはそれ以上に人間の精神生活に作用することが証明されてきたのである.Merriam(1964)は「音楽ほど普遍的で,人間の行動に深く影響し,それを形作り,しばしば操作的に働く文化的な活動は他にはない」と記述している.この「音楽」という要素を有効に活用したものが音楽療法である.
全米音楽療法協会(NAMT)による音楽療法の定義の一部には,「クライエントが,不適応を抱えている自分自身の内面をより深く理解し,また自分を取り巻く周囲の状況を納得して受容することにより,望ましい行動への受容が初めて可能となる.それがさらにはクライエントの社会への適応にも影響するのである.」とあり,問題を抱えた人を援助する行為の総称であるという治療的要素が強調されている.「音楽療法」という言葉自体をみても心身に問題のある人を援助するという治療的概念が強調されているようにみえる.しかし,近年欧米だけにとどまらず,日本においても特に注目されているのはむしろその心理的成長の促進的側面である(Bunt,1996).この心理的成長の促進的側面は主に健常者に対して「療法」というよりはむしろ補助道具として音楽が使われる.これらの「音楽」を有効に利用する方法として近年ではほとんどがグループセラピーの中に音楽を適用する方法が取られている.その利点として,音楽は言語的相互作用や社会的交流を刺激促進することや,音楽がグループの発達のための出発点を提供することがあげられる(Bunt,1996).グループセラピーでは合唱や合奏を通じて,身体的,情緒的,知的,社会的に自己を意識することや,他者を意識すること,自己表現,対人コミュニケーション,重要な他者や仲間,グループとの対人関係を経験することを重視している.
心理的成長の促進的側面に関しては人間性心理学の分野において特に重視されている部分でもある.人間性心理学の主たる目標は,人々が自己の潜在力を完全に認識することを援助することであり,そこでは治療よりも成長に注目することが強調される.たとえば,個人と個性の尊重,「全人生」への意識,目的や個人の意志の発展,選択の自由,他者との関係の中での自己成長および自己実現,創造性,愛情,至高体験,自尊感情などである.そして,これらの枠組みは多くの音楽療法士のとりくみに当てはまっている.Sears(1968)は音楽療法士はグループプロセスの展開のなかで,個人の成長や潜在能力を最大化することをねらいとしており,創造性やクライエントの感情表出行為を促進することに大きく関わっていると述べている.音楽療法のプロセスにおける主な要素は「自己組織化のなかでの経験」と「他者との関係のなかでの経験」であると考えている.そこで我々は「他者との関係のなかでの自己成長および自己実現」という音楽療法および人間性心理学における取り組みについて注目した.
人間の心理的発達形成における自己・他者の概念と対人関係
人間は生まれたときから母と子供,家族の中での自分,近所のともだち,というように対人関係の形成,更にグループの構成,社会的相互作用とその中での自分の役割,自己認知,他者認知などを通して人格の発達を経験していく.この中でエリクソン発達論による青年期の発達課題の一つでもある自我同一性の確立を達成するのである.ここで自我同一性の確立にいたる自己心理的形成のうちで重要なキーポイントとなるものとして自己と他者の認知,理解,受容という概念が浮かび上がってくる.さらに他者との関係による自己理解を通じ,自己否定と受容が実験的に繰り返されることによって,自分自身の同一性と適合する選択が最終的に自己受容され,自我同一性の確立にいたる(Allport,1961)という指摘がなされている.
Erikson(1968)によると自己という概念に対して他者という概念の重要性が示されている.吉森(1987)は人は他者との関係を通じて,自分がどんな人間であるかを確認する,「自我と他者はいっしょに形成されてくるものだ」(Wallon,1956),「自己意識といわれるものは,社会との関わりによって発達するものだと考えている」(Mead,1924;Sullivan,1953).つまり“自分”というのは,社会的自己(James,1890)といわれるように,社会の中でこそ意味をもち,必要とされる概念であるというのである.従来から多くの人に指摘されているように,人からどのように見られているか,他者がとる態度をどのように取得するか(James,1890;Mead,1924;Sullivan,1953)といった意味においてだけでなく,自分が他者をどう感じるかということや,自らの感情や思考は他ならぬ自分に属するものだと感じるということにおいても同様であると考えられる. つまり,自己概念の形成は他者との重要な社会相互作用(対人関係)によって発達するもの(Esptein,1973)であり,青年期の対人関係の中で交友関係が人格形成においてもっとも重視される要素の一つである.
交友関係において友情がはぐくまれる.友情には「相互理解(忠誠心を前提とする)」と「親密性」という2つの中心的な概念がある(Mead,1924).さらにこれらの概念や,社会的相互作用の基礎となる概念となるものとして他者受容と自己受容があげられている.人は対人関係を通して自己を認知し,理解し,自分を受け入れていく.他人に対してもまた同様であり,最終的に行き着くところには受容という概念があるのである.
心理療法においても自己受容という概念が特に重視される.現代の臨床の場面において積極的に採用されているのはRogersによるカウンセリング理論である.その理論の中で特に強調されていることの一つであり,セラピーの終極目標であるのがこの自己受容である.自己受容とはあるがままの自分を好きになることであるとRogersは定義している.つまり,精神を健康にたもつためには自己受容が重要な要素であり,その自己受容の必須条件として他者の存在(対人関係・社会的相互作用)があり,最終概念として他者受容が存在するのである.
ここで松井(1995)がErikson(1968)の発達課題と危機的状況についてのそれぞれの時期において音楽がどういった役割をするのかについて述べていることに注目したい.ここまで自我同一性を中心に考えてきたこともあり,特に学童期前中期と青年期を抜粋すると,
「学童期中期にかけては,性的同一性の獲得と同時に,集団の中での自己認知や社会性の獲得に対して特に集団音楽活動が有効になる.また音楽教育は,一定の枠組みの中での自己表現を促進し,高度な秩序性を身につける助けになることができる」(松井,1995,p.23).
また「青年期には,思春期特有の微妙な感情表現に音楽が効力を発揮することができ,両親とは違う自己特有の世界を作ることに音楽が役立つことができる.」(松井,1995,p.23)と指摘している.つまり,音楽という要素が人間の成長を促進する作用をもつことをここでも指摘しており,前に述べたErikson(1968)の発達論との関わりについても提示している.
我々はここでErikson(1968)の発達論と松井(1995)による説をもとに人間的成長と音楽の関わりについて実際に研究を進めることとなった.そして学童期の終わりから青年期にかかる中学生を研究対象とすることとした.中学生が経験する音楽活動としておもに合唱と合奏がある.合唱と合奏の違いは言語による表現の有無である.「合唱においては子供たちは自分の歌っている歌詞に生き生きとした一体感をもつようになり,言語的・発声的な意識が強化されて焦点が集まり言語で表現される自我活動が補強される.また,子供たちが作業の意味や達成を自分自身のものとしてとりいれることは,内的な刺激と卓越した安定感の源泉となる」(Nordoff,1971;Robbins,1971. p27)ことがいわれている.この点から音楽活動のなかで,合奏よりもさらに言語的に優位である合唱にしぼった.
学校教育の場における音楽教育の内容・意義
音楽教育は,全体として,音楽に対する感受性を増すという教育目標を持つ.この目標を達成するために広く多様な音楽的経験をともなう活動を行うことになる.特に中学1年のあたりでは子どもに大きな成長が見られるため,それにあわせて教育自体にも変化が要求される.この時期はほとんどの子どもたちの精神能力が子どもから大人へと推移し始める年齢期である.
現在の音楽教育では,十代の精神作用がもっと成熟した状態であることが,一般的に認識されていなかったため,中学生段階の音楽教育の内容が子どもっぽく,それが適切な指導を困難にしていたといえる (Liemer,1991).その結果,音楽教育はだんだん創作活動に頼ることを少なくし,鑑賞や鑑賞に関連した活動に内容を強化してしまう.それに対し,演奏教育は特に演奏に才能のあるものも含めて,音楽を作り出す内容を強化していくのである.しかし,この内容を十分に取り入れた音楽教育を行っているといえないのが現状である.
音楽的感受性は,学年が進むにしたがって成長させなければならない.最も適切な指導法は,現在可能な音楽的経験を重ねることである.将来のためを強調するあまり,音楽的経験を満足させることをたえず「先に延ばす」音楽教育では,現在の生活ばかりか,将来の生活からも子どもたちの大切な可能性を奪い取ってしまうのである.音楽教育は,学校生活のどの時点でもすべての子どもの音楽的経験による芸術的感受性に深まりを与える手段である.このように考えると,音楽教育ほど子どもの成長に貢献するものはないと言える.
以上のような音楽教育を実際の教育の場に実現させていくことが音楽教育におけるもっとも重要な課題であるといえる.
グループワークにおける音楽の効果
さらにわれわれは実際の学校教育の場で実行されている音楽教育を「音楽を取り入れたグループワーク」としてとらえることにより,音楽という要素の意義と「音楽的グループワーク」が個人に与える影響について述べる.
まず,音楽がグループワークに与える役割について考えてみる.たとえば,音楽活動によるグループワークの一つに合奏がある.グループのメンバーは合奏を経験することで,問題に立ち向かい困難を克服していく姿勢が形成され,およびグループの発展プロセスを学ぶ.即興演奏などにおいては,全員がうまく演奏できるとは限らない.そういった場合,グループ内には仲間に配慮する意識が表れ始め,互いを支え合う機会が多く生まれる.このように,音楽活動を通じたグループワークは他人の経験や困難と照らしあわせながら現状を見つめることに役立つのである.ここで音楽のもつ特性の一つをあげると,音楽はきわめて社会的な行為であるということである(Bunt,1996).というのは,音楽を構成するメンバーが相互に音を聴き合い,模倣し,お互いから学ぶことにより,メンバーはそれぞれ自分の役割をグループの中に見つけ,よりうまく他者との関わりを持つ方法を見つけていくようになるからである.このように音楽活動は,個人の感覚に深く訴えるだけではなく,グループの発展においても重要な役割を果たすといえる.
われわれの出した結果の一つである「自己−他者の関係性」が有意であったことからも,自己の概念に他者の存在が不可欠であることは言うまでもない.グループの発展や社会的相互作用と個人の精神的成長が密接な関係にある.
このように音楽という要素はグループワークの長所を助長させる性質を持っている.したがって,学校教育における音楽の授業のなかでこの要素を有効に利用することによって,青年期における自我の発達の大きな補助となりうることはもちろん,学校教育以外でも利用方法によっては音楽療法がいかに有効性を発揮できる療法であるかは言うまでもない.
仮説と研究の目的
以上のように多くの研究者による研究と観点をもとに次のような仮説を提示するに至った.われわれはこの仮説を立証することにより,音楽を取り入れたグループワークの有意性と学校教育の場における音楽教育の意義を支持したい.
仮説 .
合唱コンクールという音楽的グループワークを通じて,社会的相互作用
を経験し,影響を受けた結果個人の自己受容・他者受容が高まる.
音楽という要素を使用するグループワークの枠組みとして合唱コンクールをとらえ,自己の成長発達の基礎にある自己受容・他者受容に対してどれほどの影響を与えられるのかについて研究を進める.さらに我々はこの合唱コンクールという学校行事の生徒にとっての(少なくとも自己の成長発達という観点から)教育的意義についての視点からも結果を見ていきたい.なお今調査においては音楽活動の有意義性を特に重視するため,合唱コンクールを経験した中学生と経験しなかった中学生との比較検討を行うこととする.