第二節 在日韓国・朝鮮人一世の生活史

ライフヒストリー

来日の歴史とこれまでの生活の経緯と想い

Aさん:韓国で結婚して先に日本に来ていた夫を頼って21才の時に来日。新長田のほうに住んでいてそこで3人の子供を産んだ。3人目がおなかの中にいる時に夫が亡くなった。言葉も字も分からない日本での生活は苦しかった。子供たちを養うために必死で働いた。震災前まではケミカルシューズ工場で靴のゴム底を縫い付ける仕事をしていた。

21才で来て子供3人うんでおおきさせて。それにまた26才の時に婿さんが死んで。一番下がおなかにおってお父ささんが亡くなったんや。だから下の子はお父さんの顔知らんねん。それで女の子が4つ、上の子が5つ。まあ年子やったからな。」

「言葉も分からんし字も分からん。何もかも分からん。そやから韓国行きたいゆうて毎晩泣いたしな。」

「ずっと働いて。まあまあや思ったとたん、この子が熱でな。悪なったから。まあ働きもってしてもおいつかへんやん。女が1人働いても。それで民生委員がだれかいうてみいて連れていってくれて。」

「とにかく人の世話にならないってずーっとがんばってこられた人だったから。で、どうしようもなくなった時に日本の組織じゃなくて在日の組織が教えてくれたの。民生委員にしても何にしても。」(Rさん)

Bさん:長田に住むようになって40年。18歳の時に朝鮮で結婚して21歳のときに慶尚南道の金海(キメ)から日本に来た。ご主人が先に日本に来ていてその後を追って1人で来た。初めは下関にいた。日本語がまったく分からず苦労したが、少しずつ覚えていった。けれども病気になって長く使ってきた日本語を忘れてしまい、21歳までしか使わなかった朝鮮語しか使えなくなってしまった。(そのため、今回のヒアリング調査もRさんの通訳を通して行われている。)日本語を聞くことは多少できる。知っている人もあまりいなくて頼る人は夫だけだったが、夫にたびたびたたかれて苦労した。

Cさん:16才で結婚して夫とともに日本に来た。はじめは山口県にいて木炭や炭を焼く仕事をしていた。日本に来てこんなつらい仕事をするぐらいだったら死んだほうがましだと何度も思った。長田に移り住んでからは震災前までケミカルシューズ工場で靴の底を縫ったり、底の土台をつくったり、のりをぬる仕事をしていた。日本語も全然分からなかったが一年で家の所帯を任された。20才までは苦労しすぎで年月が経つのがすごく遅く感じられた。今、夫はCさんに当時のことを思ってすごく感謝している。

(もうずっと長田に住んでいるんですか。)

「山口県におって、まあ30年ぐらいになるんかな。そこでな、木炭焼いて炭焼きしとった。日本に来てこんな仕事ええことない。死んだほうがましやおもたりな。」

(Cさんは震災前までずっと働いてて自立してたのよ。)(Rさん)

「靴の底をぬったり、靴の土台をつくったりな。それをなに、のりをぬりよったんや。」

「腹が立ったらな、主人にこないいいたるねん。自分は兄弟も多いし、日本におったやろいうて。だからお父さんいいよる。もうちょっとな、字が分かってな、やっとったらおまえをそんなにつかわんでもよかったけどいうてな。今になったらかわいそうに思ういうて。」

30年ぶりに韓国に行ったら、もう親は死んでおらへん。で、ここが韓国やいわれた時にはまあ、人がたたいてもそんな涙が出るかいうぐらいぽろぽろ涙がでたんや。」

20才まではつらかったよ。年がいわれへんかったもん。恥ずかしいて。子供おったし。」