第二節 神戸市長田区と在日韓国・朝鮮人

現在、兵庫県に在住する在日韓国・朝鮮人は約7万人あまりでそのうち約3万人が神戸市に住んでいる。一般的に「在日」が定着する要件としては同胞が以前からある程度集中していること、また比較的仕事に恵まれているなどが考えられる。神戸は港町で船が入国しやすいこと、明治開国後から多くの外国人が神戸に入ってきて他の街よりも言葉が不自由でも共に暮らしていけそうな雰囲気があったことなどから大阪ほどでないにしろ神戸に定着する在日朝鮮人の人たちが増加した。

神戸市長田区と「在日」のつながりを見る上で戦争・ケミカルシューズ・阪神淡路大震災は欠かせない。この3つのキーワードをふまえて戦前・戦後・阪神・淡路大震災後にわけて神戸市長田区と「在日」の人たちの足跡をたどっていきたい。

 

「地理的な関係からして南部朝鮮の出身者は日本への渡航者の中で大きな比重を占め、逆に北方大陸方面への移住者の中では北部朝鮮の出身者が多数を占めた。1923年の日本内務省警保局の調べによると当時の在日朝鮮人総数80617人のうち出身地が判明する72815人の内分けは慶尚南道28628人、慶尚北道11404人、全羅南道(済州島を含む)18050人と全体の8割を占めている。」注1:)

神戸に定着した人の約70%の人が慶尚南道・北道の農村出身者で、土地調査事業により土地を失った農民達であった。言葉の不自由な初期の労働者が就業できるのは言葉を必要としない力仕事であった。大都市には必然的に交通網の広がりが急務であり、神戸もまた数々の鉄道路工事に朝鮮人を起用した。神戸有馬電鉄(湊川〜有馬・三田間、34.5q)は1927〜28年に、三木電鉄(鈴蘭台〜三木間、19.3q)は1936〜37年にかけて工事が行われたが劣悪な労働条件と低賃金・給与未支払いなどの問題で雇用側と朝鮮人労働者達はたびたび衝突している。

神戸における朝鮮人労働者としては朝鮮飴売りの存在もあげられる。あまり日本語を知らなくてもできる仕事ということもあり、日本に来て間もない朝鮮人が「白いシャツ、白いズボン、素足には珍しい草鞋を履いて長い髪をチョンマゲにたばね、屋根つきの屋台を引いて売り歩いた。」注2:)鉄道工事や水力発電所の朝鮮人労働者の多くは工事を請け負った業者が朝鮮で募集したものだったが、飴売りはばらばらに渡航してきた。春先から真夏にかけて湊川遊園の木陰にずらりと並んだ屋台風景は神戸の風物詩であった。しかし1917年頃から労働力を求める労働人夫として転身する人が増えその数はめっきり少なくなった。

朝鮮人が日本に渡航してくるのにはそれなりの理由があったことは第一節のところでも述べた事ではあるが神戸における在日朝鮮人も例外ではなかった。「1927年9月の神戸市の調査によると神戸在住朝鮮人(所帯持ち)の90.22%が渡航理由を労働のため、生活困難なため、金儲けのためと答えている。」 注3:)

 

神戸市長田区に朝鮮人が集中してきた理由としてゴム工業をあげることができる。もともと明治から大正にかけて長田は「マッチの街」として知られていた。神戸港があって欧米向けの輸出に便利であったこと、地理的にみて住環境の悪いところに住んでいた貧民がマッチ産業に従事し労働力があったことなどからマッチ産業は長田のシンボルとなった。「だが、さらなる低賃金労働力を求めて拠点を中国大陸や朝鮮半島に移したマッチ産業は、第一次世界大戦後、構造不況と空洞化にのしかかられ、またたくまに瓦解する。このとき職を失った大勢の人々を吸収したのが、やはり明治時代から勃興してきたゴムやタイヤ、チューブなどを製造するゴム産業であった。」注4:) 第一次世界大戦後の不況により日本は大量の失業者がでた。神戸の朝鮮人労働者も例外ではなかった。しかし不況にもかかわらず長田のゴム工業地帯は活気づいた。「特に製靴は地方の需要が旺盛で工場新設の出願者が続出したという。さらに1923年の関東大震災時には、東京、横浜方面のゴム工場焼失により、全国の注文が神戸に殺到、工場間で熟練ゴム工を奪い合いするまでになった。長田への朝鮮人の集住は、この頃に始まったものではないかと推測される。」注5:) 

かくしてゴム産業は第二次世界大戦の直後まで、長田の地場産業でありつづけた。当時のゴム工業は家庭内工業が主流であった。1925年以降には輸出用のゴム底ズック靴が主流となり、零細企業による分業体制へと変わっていった。分業による単純作業は日本語が分からなくてもできるうえ、専門知識もいらない。また長田には比較的安い賃金で家が借りられたり工場で住み込みで働けたりという条件も重なって在日朝鮮人の数はどんどん増加していった。

「長田の朝鮮人数は1920年代後半から1930年代前半にかけて神戸市の朝鮮人人口の半分を占めた。具体的な数字でみてみると1926年は1,411人で神戸市の50.5%を占め、1930年は5,035人で同42.3%を占めた。その後、神戸市全体の朝鮮人の増加により長田区の占める比率は小さくなるが、長田区の人口全体は1935年7,439人、1936年は8,535人、1939年には14,692人と増え続けた。」 注6:) 現在(1998年)における長田区の韓国・朝鮮人数は7,739人となっている。戦前に長田のゴム工業に従事した朝鮮人の数は正確には分からない。だが1930年〜1935年の不況時には朝鮮人職工の労働争議がおき、警察と衝突したという記録が残っている。

 

注1:)姜 在彦 「在日からの視座」 (新幹社 1994年9月30日) P194 L10〜14

注2:)1917年9月6日 神戸新聞より

注3:)朴 鐘鳴 「在日朝鮮人 歴史・現状・展望」 (明石書店 1995年3月31日)P88 L16〜19

注4:)野村 進「コリアン世界の旅」(講談社 1996年12月26日)P287 L2〜7 

注5:)石井 昭男「阪神淡路大震災と外国人」(明石書店 1996年1月31日)P36 L15〜P37 L1

注6:)石井 昭男「阪神淡路大震災と外国人」(明石書店 1996年1月31日)P37 L9〜14

 

第二次世界大戦が終結して神戸在住の在日朝鮮人の多くは本国に帰っていった。だが中には帰国費用を捻出できない者、生活の基盤が日本にあるため本国に帰っても生活力がないなどの理由で神戸にとどまる朝鮮人達もいた。彼らの中には不法と知りながらも家族を支えるため闇市で生計を立てるものもいた。そのため三宮の高架下から立ち退かされた在日朝鮮人達は当時の葺合区に三宮国際マーケットを誕生させる。その後、国際マーケットはどんどん規模を大きくし神戸の小売業の基礎の一端を担うまでになった。1950年に始まった朝鮮戦争は在日朝鮮人達の帰国の夢を打ち砕いただけでなく同一民族分断という悲しい影を落とした。在日朝鮮人が多く住む神戸でも例外ではなかった。

 

戦後の空襲で長田のゴム工業も大きな被害を受けた。しかし終戦直後の物不足ではゴム製品が大変喜ばれたため復興も早く、1946年には多数のゴム工業が操業を開始している。1951年の生ゴム統制解除により生ゴムが豊富に出回るようになると品質やブランドが重視されるようになり長田のゴム工場の中には大企業に押され倒産するものも出てきた。また人々の心にもおしゃれに対する関心が高まり出した。そこでゴム工業者はこのまま長靴や半長靴を造っていただけでは到底太刀打ちできないと察し品種やデザインを駆使しだした。時を同じくして塩化ビニールが登場し、これに目をつけた長田の街はビニール靴をつくるようになる。「生ゴム獲得競争で外国人の法的制限の少なさを存分に生かしてのしあがってきた在日韓国・朝鮮人たちが、この新製品の産みの親になった。」 注7:)これがケミカルシューズの始まりであった。ケミカルシューズの命名者である韓さんはその由来を次のように語っている。「『ビニール靴の、何かいい統一した呼称はないかというので、私がビニールで作ってる科学シューズやからケミカルシューズでどうやといったら、それでいこうということになったんです。』」注8:)その後ケミカルシューズ業は大きな発展を遂げ、街を代表する産業となった。「最盛期には関連の会社は800社を数え、その6,7割が朝鮮人業者といわれた。」注9:)

1970年代に入っておこったドルショックとオイルショックによってケミカルシューズ業は再び打撃を受ける。アメリカ向けの輸出がほとんどだめになり国内向けもほとんどなくなった。「ケミカルシューズ産業はすでに構造不況業種になっていたうえに、韓国や台湾への生産拠点のシフトが進み、明治・大正期のマッチ産業と酷似した空洞化への道を辿っていたのである。 90年代にはいると、新たな危機が追い打ちをかける。急激な円高と中国の参入である。長田のメーカーが苦心のすえ開発した新製品が、国内市場の競争で一年と持たない。イミテーションの中国製品が、半額以下の値段で流れ込んでくるからだ。メーカーの数も、最前期の800社から400社に半減し、震災前の工場の稼働率は平均して6割程度にまで落ち込んでいた。」注10:) ケミカルシューズ製造は裁断、ミシン、靴底、ビニール加工、貼加工など約20工程の下請けが連なる完全分業体制である。さらに関連の資材、機械、金型、運送などの業者も加わる。そのためひとつの下請け操業中止はその1社だけの問題ではなく、他の関連会社にとっても死活問題であった。

このように経営不況だった長田区のケミカルシューズ産業に決定的な打撃を与えたのが、1995年1月17日におきた阪神淡路大震災だった。 

 

注7:)野村 進「コリアン世界の旅」(講談社 1996年12月26日)P287 L17〜18

注8:)野村 進「コリアン世界の旅」(講談社 1996年12月26日)P288 L6〜8

注9:)石井 昭男「阪神淡路大震災と外国人」(明石書店 1996年1月31日)P46 L7〜8

注10:)野村 進「コリアン世界の旅」(講談社 1996年12月26日)P289 L9〜15

 

1995年1月17日午前5時46分、神戸を震度7の大地震が襲った。阪神・淡路大震災である。神戸の韓国領事館や在日本大韓民国民団兵庫県本部などの集計によると兵庫県では137人の在日韓国・朝鮮人が死亡した。皮肉なことに「在日」の人たちが最も多く在住する長田区は被害が最も大きい地域となった。その理由としてここは明治ころの河川工事で開かれた土地であったため地盤が相当に弱かったこと、安価な木造家が多かったため烈震にひとたまりもなかったことがあげられる。「同区にいる『在日』の被災者は2千人を超え、40ヶ所の避難所にいる。全壊もしくは全焼した家屋は約700軒、半壊を入れると1,200〜1,400軒にのぼるとみられる。」 注11:)

この震災でケミカルシューズ業は半数以上の工場が全半壊するという大打撃を被った。もともと家内工業制が主流な産業のため、規模も小さくとてもではないが震度7のゆれに耐えられるものではなかった。「震災の後に一人暮らしの年寄りが多く被災したという認識があるが、在日韓国・朝鮮人の暮らし方として、二階建ての家があったら二階に住んで一階を作業場にしているパターンが多い。だから震災の時に二階には誰かが寝ていたのではないか。すなわち、一世が頑張って、長田区内で借家として借りていた家を地主から買う。その二階に暮らしながら、一階を工場として使い、家族経営または人を雇って操業を続ける。余裕があれば自宅付近に工場を建てて、通いで仕事をするようになる。二世が育ち、同じ仕事を手伝って自立への道を準備する。二世が結婚して工場を別に買うと、子供は長田を離れ、郊外の家に引っ越してしまう。すると最後にはお年寄りが長田の家の二階に残ることになる。こうして残ったお年寄り達が、新長田駅付近の一戸建てに住んでいた。一つだけ幸いしたのはその多くが二階に住んでいたことだ。そのため、家の下敷きにならずに、がれきの中から這い出した人もいた。もちろん、そのまま息を引き取った人もいた…。」 注12:)

震災から2年たった1997年にはメーカーの95%以上はすでに営業を再開したといわれている。しかしその生産量は地震前の半分にも達していないのが現状だ。地震による被害もさることながら、中国やベトナムなどからの安価なアジア製品が流れ込んできたからだ。かつてはケミカルシューズ業に従事する日本人も多かった。しかし彼(女)らの多くは靴作りに見切りをつけ長田を去っていった。その後をついで今日まで頑張ってきたのが「在日」の人たちだ。だが彼(女)らにもかつての日本人と同じような流れがおこっている。つまり長引く景気後退でケミカル業も経営が厳しくなってきたこと、以前に比べて就職差別が緩やかになりケミカル業に従事する「在日」の若者が減ってきたことから少しずつ「在日」の人たちは長田から離れていこうとしている。そして今回の大震災。「地震で職を失った人々の多くは、長田の外に新たな活路を求めた。神戸市に9つある区のうち、地震後の人口流出に歯止めがかからないのは、唯一長田区だけである。中小・零細企業の倒産や人員削減などで、失業者はいまなお増え続け、「在日」の失業者数は実際には1万〜1万5千人におよぶのではないかともいわれていた。」注13:)ケミカルシューズ業とそれを生活の基盤にしてきた「在日」の人たちの構図は今後どうなっていくのだろうか。

 

注11:)1995年3月8日 朝日新聞夕刊より

注12:)石井 昭男「阪神淡路大震災と外国人」(明石書店 1996年1月31日)P81 L7〜17

注13:)野村 進「コリアン世界の旅」(講談社 1996年12月26日)P302 L8〜11