第一章 在日韓国・朝鮮人について

第一節 在日韓国・朝鮮人の歴史的背景

 韓国・朝鮮の人たちはどうして日本に住むようになったのだろう。「在日」の歴史を知る上で1910(明治43)年の日韓併合の意義は大きい。日本の朝鮮侵略はそれ以前から進んでいたが、日韓併合によって朝鮮半島は完全に日本の領土となったからだ。ここでは日韓併合と第2次世界大戦終結を転機として在日韓国・朝鮮人たちの歴史をたどっていきたい。

(注:朝鮮戦争前では在日朝鮮と明記しているが、朝鮮戦争後は在日韓国・朝鮮と明記している。)

 

在日朝鮮人の歴史を日本への出稼ぎとみるならば実は併合以前からも朝鮮人の渡日の動きはあった。ただ通説的には「1899(明治32)年の勅令第352号『条約若しくは慣行により移住の自由を有せざる外国人の移住及び営業などに関する件』によって日本への朝鮮人労働者の入国が禁止されていたが併合により日本国民となった朝鮮人にはこの勅令が適用されなくなって、労働力として流れてくるようになったとされている。だがこの『勅令第352号=朝鮮人労働者の入国禁止』という見方は大変な誤解である。」 注1:)というのもこの勅令は当時日本に在留する外国人の多くを占めていた清(中国)の労働移民を規制するものだったからだ。 併合前の在日朝鮮人数については当時の統計作業や方法が明らかでないのでその数の確実性は実証しにくいが当時の新聞や工事犠牲者霊碑などの調査で朝鮮人労働者・芸者などがいたことが確認されている。以下いくつかの史実をあげておく。 注2:)

 

注1:)小松 祐/金 英達/山脇 啓造/石井 昭男/「韓国併合前の在日朝鮮人」(明石書店、1994年9月30日)P16 L2〜10

注2:)史実は 小松 祐/金 英達/山脇 啓造/石井 昭男/「韓国併合前の在日朝鮮人」(明石書店、1994年9月30日)P24〜26

   のいくつかを抜粋

 

この時期は憲兵と警察と暴力によって朝鮮において強制的植民地政策が推し進められた時期である。1910(明治43)年の日韓併合の翌月、朝鮮総督府が置かれ武断政治が強化された。日本政府主導のもとに設立された東洋拓殖株式会社は土地所有権を制度として確立するために1910年から土地調査事業を実施した。これによって多数の朝鮮人農民は土地を奪われ小作人となった。「1914(大正3)年から1919(大正8)年の間に地主の割合は1.8%から3.4%に、小作は35.1%から37.3%にふえ、自作農と自小作はともに減少している。農民は生活に苦しみ、年利4割4分という高利貸しの借金に苦しんでいたとされる。」 注4:)1914年には第1次世界大戦が始まり、軍需好景気の波に乗った日本は国内労働力の不足と低賃金政策を維持する観点から朝鮮からの労働力の輸入に本格的に乗り出した。以上のような背景を受けて日本に出稼ぎに来る朝鮮人が次第に増加した。

初期において兵庫県下で朝鮮人労働者を使用した工場と開始日 注5:)

・摂津紡績明石工場   1912年6月

・紀陽織布工場     1916年11月

・由良染料工場     1917年8月

・日出紡績工場     1917年9月

ところが1919年、3・1独立運動がおこる。革命運動の海外への波及、革命家たちの入国を恐れた日本は同年4月「朝鮮人/旅行取締に関する件」を発布し朝鮮人渡航者を制限したが1922年の同法の廃止とおりからの第一次世界大戦中の労働力不足のあおりを受けて実際には制限は実行力に乏しくかなりの朝鮮人が渡日した。

 

注3:)区分けは 在彦 「在日からの視座」 (新幹社 1994年9月30日)による。

注4:)庄谷 怜子 「大都市のエスニック・コミュニティにおける生活構造と福祉の課題」

   (大阪府立大学 社会福祉学部 平成7年6月) P17 L13〜15

注5:)姜 在彦 「在日からの視座」 (新幹社 1994年9月30日) P192〜193

 

3・1独立運動の後、日本政府は民族の抵抗を弱めるため朝鮮の支配方法を従来の「武断政治」から「文化政治」にかえ、いわゆる同化政策を推し進めた。1923年には「産米増殖計画」が実施された。これは朝鮮で米を安くつくって日本にたくさん輸出させようというもので日本の食糧危機を救うところにその主要な目的があった。一方第一次世界大戦が終わって慢性的な不況に陥った日本は対朝鮮資本流出をどんどん推し進めた。その結果、朝鮮の民族企業は大きな被害を被った。「この計画は朝鮮農民に種子、肥料、農具購入などの負担を増大させ、飢餓と没落を増やしたに過ぎなかった。逆に日本では朝鮮の大量移入により米価の高騰をおさえ、労働者の低賃金水準を維持する役割を果たした。」 注6:)日本の資本家達は安価な朝鮮人労働力を移入し、より大きい利潤を得るために朝鮮人労働者を求めた。1922年に朝鮮総督府令が廃止されたこともあり(第1渡航期参照)朝鮮人の渡航数は激増した。在日韓国朝鮮人一世の人たちが最も多く来日した時期もこの頃で、昭和初年を中心にして1920年〜30年代に集中している。この頃は日本においても失業問題が深刻になり、1923年以降、何度か朝鮮人の渡航制限がなされているにもかかわらずその数は増加しつづけている。

 

注6:)朴 鐘鳴 「在日朝鮮人 歴史・現状・展望」 (明石書店 1995年3月31日)P87 L8〜9

 

1929年の世界大恐慌に巻きこまれた日本は次第に大陸侵略にその抜け道を見出していった。1931年の満州事変に始まり1937年には日中戦争が始まった。1930年を前後して日本農村を襲った農業恐慌は産米増殖計画に重大な影響を与え、朝鮮農民は深刻なあおりを受けた。産米増殖計画にかわって登場したのがいわゆる「北羊南綿」で日本の紡績工業の生糸以外の原料(原綿、羊毛)を朝鮮で生産しようというものだった。この勝手な政策の転換の打撃をもっとも強く受けるのは、生活にゆとりのない朝鮮の零細農民であった。このように農村の負債額が増えるにしたがって本国で暮らせなくなった朝鮮人が生活の糧を求めて日本にやってきた。

 

1938年までの在日朝鮮人の形成は間接的・応募的なものだったが、1939年以降は直接的・暴力的なものだったといえる。1937年に始まった日中戦争が予想外に長引き、1941年には第二次世界大戦が始まった。これにより国内では青年層が次々と戦地に送り込まれ戦時産業における労働力の不足は重大な問題となった。これらの労働力不足を補うため、日本は大量の朝鮮人労働者を欲したが、これまでのように農村からの自然流出を待つだけではまわらなくなり、強制的な手段をとるようになった。1939年に「集団募集」を開始し、朝鮮人労働者の多くは特に危険率が高い炭坑部門にまわされた。1942年に「官斡旋方式」がとられた。これは「朝鮮総督府と地方官庁の斡旋で労務者を供出し出身地別の隊組織を編成して一定の訓練を行い連行する方式である。しかしそれでも予定数に達しない事が多く強制・脅迫はもちろん人狩りのような方法で連行した。」 注7:) 1944年には「徴用・徴兵」方式によって6万5千人におよぶ大量の朝鮮人を日本へ強制連行した。これにより在日朝鮮人の人口は激増する。実に1940年代の5年間に100万人近い朝鮮人が強制的に移動させられた。さらに戦時中には陸海軍人、軍属として強制的に駆りだされたものも大勢いた。

 

注7:)朴 鐘鳴 「在日朝鮮人 歴史・現状・展望」 (明石書店 1995年3月31日)P92 L4〜6

 

1945年8月15日、日本は無条件降伏した。この事は同時に朝鮮の人たちにとって民族の解放を意味するものだった。彼(女)らは帰国を急いで港に殺到した。GHQの朝鮮人帰国に関する方針は1945年11月1日に決定され1946年3月18日より帰国のための登録が始まった。1945年8月15日から1946年3月までに128万9837人の在日朝鮮人が故国へ引き揚げている。だが現実問題として朝鮮本土の状況は思ったより悪かった。「解放直後、朝鮮の混沌たる政情に民心は落ち着かず、米軍政の過渡的方針に本格的生産は始まらず、インフレはおき、特に米の集荷の失敗のために配給はとだえ、1921年春には米よこせデモが起こっていた。北鮮(ママ)から、中国から、日本からの帰還朝鮮人で日本人の引き揚げた後の住宅は早くもふさがり、わずか千円の持ち帰り金や250ポンドの荷物では生活は容易ではなかった。これでは日本のほうが楽だ。−特に日本に永く住んでいたものは朝鮮での新しい生活基盤の困難なためにまた日本に密航してきた。朝鮮内の事情を聞いて引揚を思いとどまる朝鮮人も多かった。」 注8:)また在日期間の長期化で日本に生活の基盤がある朝鮮人も多かった。子供が朝鮮語を知らない、親類・縁者たちと一緒に日本へわたってきたので朝鮮に帰っても頼る人がいないなどの理由で帰国を見合わせる人が多かった。「在日朝鮮人の大部分が南朝鮮の出身者であったが、帰国者は減少し1946年12月28日をもって集団帰国は終わった。個人的な帰国は続いたが1950年6月朝鮮戦争の勃発でそれも途絶えてしまった。このとき在留したものが現在の在日韓国・朝鮮人を形成している。」注9:)

 

注8:)森田 芳夫 「在日朝鮮人の推移と現状」

注9:)朴 鐘鳴 「在日朝鮮人 歴史・現状・展望」 (明石書店 1995年3月31日)P99 L13〜15