W.考察
我々の仮説をふりかると、
・ 公的自意識の高い人は、スティグマを意識する度合いが高い。したがって「心のケア」
に対する距離も遠い。
・ 私的自意識の高い人は、スティグマを意識する度合いが低い。したがって「心のケア」
に対する距離も近い。
ということであった。
では、調査結果をもとに順次我々の仮説を検証してみよう。
公的自意識の高い群のスティグマ得点の平均値は72.69863点、
公的自意識の低い群のスティグマ得点の平均値は63.56604点であった。(図1参照)
これは、公的自意識が強い人は他者による拒否に敏感であるため(菅原,1984)自分が周囲から逸脱した変わった人間と見られるのが嫌であったり(押見、1992)、他者から関心を持たれていると感じやすい。それゆえスティグマの因子である「逸脱」や「恥」の得点が高くなっていると考えられるのではないだろうか。
私的自意識の高い群のスティグマ得点の平均値は68.56284点、
私的自意識の低い群のスティグマ得点の平均値は75.76404点であった。(図2参照)
私的自意識の強い人に見られる傾向として集団の圧力に抵抗しやすい、態度と行動の一致度が高い、などがあるが、このような傾向を持つ人はある対象がどのようなスティグマを負っており、世間一般の人がそれをどう意識しているかではなく自分の中での価値観にしたがって行動していると思われる。そして、私的自意識の高い人は周囲から逸脱した人間と見られるのを嫌う姿勢は弱い(押見、1992)。よって「逸脱」や「恥」の得点が低くなると考えられよう。
以上、@とAから少なくとも次のことがいえよう。
公的自意識が高い人は、低い人に比較して、スティグマを意識する度合いが高い。
私的自意識の高い人は、低い人に比較して、スティグマを意識する度合いが低い。
したがって、
公的自意識・私的自意識の高低と、スティグマを意識する度合いの高低には、強い相関関係が認められる。これは我々の仮説を支持するものである。
B スティグマを意識する度合いが高い人は、「心のケア」に対する距離が遠い。
スティグマを意識する度合いが低い人は、「心のケア」に対する距離が近い。
スティグマを意識する度合いの高い群の距離得点の平均値は37.00962点、
スティグマを意識する度合いの低い群の距離得点の平均値は40.20238点であった。(図3参照) *距離は近いほど高得点となる
この結果より、スティグマを意識する度合いの高い人は、低い人よりも「心のケア」に対する距離が遠いといえる。スティグマを意識する度合いの高い人は、恥や逸脱の感覚を恐れる傾向が強いので必然的に後ろめたさを感じるようなところに歩み寄ろうとしないという事が表われているのではないか。
C 公的自意識の高い人は、「心のケア」に対する距離が遠い。
公的自意識の高い群の距離得点の平均値は39.18721点、
公的自意識の低い群の距離得点の平均値は38.13208点であった。(図4参照)
@BCにより 公的自意識高い→スティグマが高い→距離が遠いという流れは認められた。しかし公的自意識高い→距離が遠いとはいえないようである。これはわれわれの作成した質問項目が意図せずスティグマに関しては否定的な問いが多く、距離に関しては肯定的な問いが多かったため、 公的自意識が高い人によく見られる、他者に同調しやすい傾向が影響を受けたのかもしれない。そのために、われわれの否定的な問いに対しては否定的な(スティグマが高い)、肯定的な問いに対しては肯定的な(距離が近い)回答に傾いたのではないだろうか。ここでは我々の仮説通りの結果を認められなかった。
D 私的自意識の高い人は、「心のケア」に対する距離が近い。
私的自意識の高い群の距離得点の平均値は47.18033点
私的自意識の低い群の距離得点の平均値は44.51685点であった。(図5参照)
この結果より、私的自意識の高い人は「心のケア」に対する距離が近いといえる。
私的自意識に関しては仮説通りであった。私的自意識の高い人は自分の内面をしっかり把握しているので、自分の知覚を信じる傾向が強く、他者の誤った判断に同調することは少ない。FromingとCarverの実験により私的自意識の高い人には集団圧力に抵抗する傾向が、公的自意識の高い人には集団の圧力に屈して同調する傾向が見いだされている(辻、1993)。つまり私的自意識の高い人は判断の基準を内なる感情や思考に求めて、正確で安定した自己知識を得る。そのために自分の信念と相容れないことには惑わされにくくなるだろう。私的自意識の高い人は、公的自意識が高い人のようにわれわれの質問紙に惑わされることも少なかったのかもしれない。
私的自意識の高い人は社会的アイデンティティ(他者との関係に関わる自己の側面)よりも個人的アイデンティティ(私的な事柄に関わる側面)を重視する(押見、1992)傾向をもつ。自分の内面を見つめるという行為は、自分のことをもっと深く知りたいという欲求を刺激する。常日頃から自分の内面を見つめて内省をする人ならば、当然自分のマイナス面にも注意が向きやすくなる。するとその人は自分のことで悩み、葛藤を体験する。
そして「カウンセリングルーム→心理的援助をしてくれるところ」として関心を寄せると 思われる。
また、本調査の対象は大学生ゆえに、就職活動に欠かせない自己分析を意識するのかもしれない。すると自己分析の必要性も高まり、自己分析を行っているカウンセリングルームへの関心も高まるだろう。それならば、公的自意識の高い人でも私的自意識の高低にかかわらず、「カウンセリングルーム→自己分析をするところ」というイメージが浸透すれば心理的距離は近くなると言えよう。この考えに基づけば、先ほどCで公的自意識の高い人でも距離が近くなるという結果が認められたのも理解できてくる。とすると公的自意識の高低は心理的距離の遠近を規定する要因には不十分であると言える。
以上@からDから少なくとも次のことがいえよう。
公的自意識が高い人は、低い人に比較して、スティグマを意識する度合いが高い。
私的自意識の高い人は、低い人に比較して、スティグマを意識する度合いが低い。
したがって、公的自意識・私的自意識の高低は、スティグマを意識する度合いの高低に関係がある。
最後に今回の調査で公的自意識が高い人ほどスティグマを意識する度合いが高く「心のケア」への距離が遠くなっているという仮説を実証できたのであるが、これは言い換えれば、心のケアが浸透しつつある今の世の中では公的自意識が高い人がスティグマよりも「心のケア」の肯定的イメージに影響を受け、それにより距離が更に近くなるとは考えられないだろうか。今後、心のケアの一般化と距離との関係に注目していきたい。
「心のケア」とは
カウンセリングやソーシャル・ケースワークに関心・興味を持っている人の数は、全体の59,7%となっている。6割弱の人が、程度の差こそあれカウンセリングやソーシャル・ケースワークに何らかの関心や興味を抱いている。では、実際にそれらについて学んだことがあるかという質問にたいしては、いいえと答えた人が77,6%であった。ここからわかることは、強い関心をもち自ら学んでいる人が全体の2割強、学んではいないが興味や関心はあるという人が4割程度存在するということである。この数字が次の「心のケア」とは何だと思うか、という自由記述にどう反映されているか。
最も多かった「受容や共感、」といった回答や、「自分自身をうけいれるための手助け」「安心、安息、心のゆとり」といった回答をあわせると全体の4割を占めた。これらの回答は、カウンセリングやケースワークの原則である「受容と共感」「利用者主体の原則」に相当するものであったり、「受け入れられたとかんじることで不安感をなくす」など、比較的専門的な回答内容となった。
問題解決や励まし、といった回答についてであるが、これでは援助者と被援助者の関係に上下関係が生じる。援助者が被援助者に対して「アドバイスしてあげる」とか、一段高いところから解決の方法を「与え」たりするのでは、利用者主体ではなく、被援助者は文字通り「被援助者」になってしまう。この場合、利用者主体の原則が崩れてしまう。これではいつまでたってもカウンセリングやソーシャル・ケースワークにスティグマが残存してしまう結果になるだろう。このような回答が少なからずあることを真摯に受け止め、普段あまりカウンセリングやソーシャル・ケースワークに接しない人々の固定観念を打破していくよう今後も努力していく必要がある。
小難しく考えるのではなく、素朴で単純明快な回答も多くあった。例えば、しゃべりあう、とにかく話を聞く・聞いてもらう、といった回答である。日常誰もが行っていること、心身のリフレッシュ、などといった回答とあわせて、このような回答からは「心のケア」を身近なものとしてとらえている様子がうかがえる。「心のケア」を概念的に捉えようとするのではなく、より身近で具体的なものとして考えている点が特徴的である。このような回答を寄せる人が相当数存在するということは、「心のケア」が特別なものとしてではなく、ごく普通のこととして認識されていることのあらわれと考えてもよいだろう。
また、回答の中には少数ながら否定的なものもみられた。専門家のいうことはマニュアル的なことだけだとか、上っ面だけがよい「心のケア」という言葉にはピンとこない、普段の生活が悪いから必要になるものだ、といった回答がそれである。これらの回答は「心のケア」に対する偏見の存在を示唆する回答である。偏見はスティグマと関連する概念として大変重要な概念である。われわれは今回、調査事項の一つとして「心のケア」に対するスティグマと「心のケア」への距離の相関について調べてみたが、「心のケア」に対する偏見と「心のケア」への距離の相関、スティグマと偏見の相関などについて仮説をたて、調査・検証してみても興味深い結果が出そうである。
隙間産業、金、一種の洗脳、社会的問題行動の防止、といった回答は、社会学部の学生らしい「皮肉な」回答であった。社会福祉学の立場とは異なる社会学の立場から「心のケア」について一考してみる価値はあるだろうし、興味深そうでもある。実際、社会学の領域で精神分析や心理療法の興隆を題材とした研究もなされている。
さて、わからないという回答に無回答を加えると全体の3割強が、「心のケア」とは何かという質問に対して答えていないことになる。これはなぜだろうか。自由記述式の質問であるため、めんどくさいという率直な理由もあるだろうが、それだけだろうか。これこそ、「心のケア」とは何かわからない、言葉やイメージだけが一人歩きしてしまっている現状を如実に反映していると言えるのではないか。
現在、「心のケア」という言葉には明確な定義づけがない。今回の自由記述への回答も様々な内容のものが見受けられ、分類できない少数意見が相当数あるなど、混沌とした現状を反映するものとなった。しかし、全体的にみて、「心のケア」に対して否定的なイメージではなく、肯定的なイメージを持っているひとが多いような印象をうける。今後もこの傾向が続き、「心のケア」への理解が深まりスティグマが軽減されていくことを願わずにはいられない。
最後にわれわれが考える「心のケア」とは何かについて一言述べておこう。
人間は密室の中で生活しているのではなく、人と人との関わりの中で暮らしている社会的な生き物である。ゆえに、個々人の「心」のみに焦点づけた関わり方のみでは、その人を支えることには十分でない。その人を取り囲む環境や社会的な側面も整えて、心も良い状態になる。心理的な支援とともに社会的な側面からの支援、全体的な視点が欠かせないのである。それがすなわちわれわれの考える「心のケア」である。