<内容分析結果>
表1:カテゴリーとログのクロス集計
実習全体で学んだこと |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
|
A |
初めてのことに混乱 |
4 |
|||||||||||||||
B |
投げ出したい、弱音を吐きたい |
7 |
|||||||||||||||
C |
スタッフへの葛藤 |
12 |
|||||||||||||||
D |
今ここにいる自分の意志 |
6 |
5 |
1 |
4 |
5 |
3 |
||||||||||
E |
必要なこと、目標 |
3 |
1 |
1 |
1 |
1 |
4 |
4 |
1 |
6 |
3 |
1 |
1 |
2 |
|||
F |
患者さんとの関係が第1歩 |
5 |
1 |
1 |
|||||||||||||
G |
患者さんに対する不安や葛藤 |
4 |
9 |
3 |
6 |
4 |
5 |
1 |
|||||||||
H |
関わることからの安心 |
2 |
2 |
3 |
1 |
||||||||||||
I |
関わることへの不安 |
2 |
2 |
1 |
1 |
||||||||||||
J |
私が苦しんでいることを知って欲しい |
1 |
1 |
||||||||||||||
K |
自分の至らなさが情けない |
1 |
1 |
||||||||||||||
L |
弱音や都合の悪いことは言いたくない |
2 |
1 |
2 |
|||||||||||||
M |
過去の人間関係 |
3 |
2 |
||||||||||||||
N |
人間関係についての考え |
1 |
1 |
2 |
6 |
||||||||||||
O |
今の私について |
3 |
5 |
6 |
5 |
||||||||||||
P |
過去の私について |
3 |
4 |
4 |
5 |
2 |
5 |
||||||||||
Q |
実習における自分の弱音 |
2 |
1 |
2 |
8 |
||||||||||||
R |
MSWになりたい理由について反省 |
4 |
7 |
3 |
|||||||||||||
S |
実習における自分の問題点 |
4 |
1 |
6 |
1 |
||||||||||||
T |
実習での学生の問題点 |
6 |
|||||||||||||||
U |
教えてもらうことに対するあせり |
5 |
|||||||||||||||
V |
スーパーバイザーへの尊敬の念 |
3 |
|||||||||||||||
W |
スーパーバイザーと自分に葛藤 |
6 |
1 |
||||||||||||||
X |
厳しさに対する葛藤 |
7 |
|||||||||||||||
Y |
学校、先生に対する不満 |
2 |
5 |
10 |
|||||||||||||
Z |
実習に対する疑問 |
1 |
2 |
1 |
|||||||||||||
α |
先生にわかってもらいたい |
5 |
|||||||||||||||
β |
教育を実践してほしい |
5 |
<コレスポンデンス分析結果>
28にまとめられられたカテゴリーとログをコレスポンデンス分析した。実習日(Session)とカテゴリー(Row)のウェイトをみたところ、次元1(Dim1)、次元2(Dim2)、次元3(Dim3)が最も関係をよく表した。(参照:付録資料)
図1:実習日(Session)
図2:カテゴリー(Row)
表2:グループとカテゴリー
グループ1:Session@での気持ち |
グループ4:スーパーバイザーと私 |
||
A |
初めてのことに混乱 |
W |
スーパーバイザーと自分に葛藤 |
B |
投げ出したい、弱音を吐きたい |
U |
教えてもらうことに対するあせり |
C |
スタッフへの葛藤 |
K |
自分の至らなさが情けない |
グループ2:人間関係について |
J |
私が苦しんでいることを知って欲しい |
|
H |
関わることからの安心 |
L |
弱音や都合の悪いことは言いたくない |
M |
過去の人間関係 |
グループ5:実習について |
|
N |
人間関係についての考え |
Q |
実習における自分の弱音 |
グループ3:自分自身について |
R |
MSWになりたい理由について反省 |
|
I |
関わることへの不安 |
S |
実習における自分の問題点 |
O |
今の私について |
T |
実習での学生の問題点 |
P |
過去の私について |
Y |
学校、先生に対する不満 |
E |
必要なこと、目標 |
Z |
実習に対する疑問 |
グループに入らなかったもの |
V |
スーパーバイザーへの尊敬の念 |
|
D |
今ここにいる自分の意志 |
X |
厳しさに対する葛藤 |
F |
患者さんとの関係が第1歩 |
α |
先生にわかってもらいたい |
G |
患者さんに対する不安や葛藤 |
β |
教育を実践してほしい |
<分析図の説明>
Session(図1:実習日)とRow(図2:カテゴリー)の図の関連から、実習の流れを検討した。
Session@に特徴的なグループ1(Session@での自分の気持ち)から始まり、SessionAでグループ3に入りかけるものの、SessionBではF(患者さんへの関係が第1歩)とR(MSWになりたい理由について反省)に飛ぶ。そして、SessionCDでグループ2(人間関係について)、SessionE〜Iでグループ3(自分自身について)におちつく。その中心には、G(患者さんに対する不安や葛藤)がある。
グループ3で行き詰まった私は、SessionJで思考を変えようとするがまたグループ2に、SessionKでもグループ3に入る。この頃になると、私はレポートを書くこと自体に行き詰まりと感じるようになっていた。結局、グループ2か3のどちらかになってしまっていたのだ。この段階でスーパーバイザーには方向転換するように言われた。そして、私は自分が感じたり、考えたりしたことをレポートにするのをやめてインテークの準備をすることにした。
そして、秋になりSessionL〜Oでは、SessionBであまり問わずにいたRを再び考えるようになり、グループ4(スーパーバイザーと私)も加わってグループ5(実習について)を形成した。
それぞれのグループに関連づけられたカテゴリーを示し、そこにみられたログを要約する。また、ログの主要な部分を具体例として提示し、自らが分析する。そして実習ストーリーを展開させたい。
◆◇◆ストーリー1◆◇◆
「自己開示の欲求と意思確認、そして先走り」
私の病院実習は混乱と不安から始まった。私にはすべてのことが初めてであり、新しい人間関係にも緊張した。それゆえ、私は自分を示し、スタッフと関わることにより自分を安心させようとした。また自分でも、今ここにいる自分を確かめることにより、自分を支えようとした。しかし、私の意欲は少し先走ってしまった。
A:初めてのことに混乱
始めは社会資源の勉強からということで、スーパーバイザーからは、現場で使っている社会資源のハンドブックを渡されていた。私を戸惑わせたものの一つは、初めて目の当たりにする社会資源の難解さと量の多さであり、もう一つは、初めてのものを誰に教えてもらうわけでもなく、自分で理解し学んでいかなければならないことであった。
1 )資料を読めば読むほど私は、現場で扱わなければならない制度がどれだけ複雑で難しく、量も多大であ
ることがわかり、私はすっかり混乱してしまった。
16)私は午前中、年金のことを勉強したが、聞きなれない言葉と複雑な内容にすっかり辟易してしまった。
19)全く知らなかった分野を自分で勉強するというのは、初めてだったのだ。
20)内容はアウトラインということだったが、私は自分で学ぶことの難しさを痛感した。
B:投げ出したい、弱音を吐きたい
そして、あまりの動揺に私は嫌気がさしてしまった。同時に、自分の困惑している気持ちを表現しくてたまらなかった。
6)難解な事柄に嫌気もさしてしまった。
7)投げやりな気持ちにもなったが、それは逃げでしかない。
12)私は、言葉を発したくて仕方がなかった。
13)「はぁ、難しい」というたった一言を言いたくてたまらなかった。
22)弱音を吐きたくて仕方がなった。
C:スタッフへの葛藤
しかし、私は自分の感情をそのまま表現できなかった。それがわかるにつれ自分の孤独さを感じ、なんとかスタッフと関係をもちたいと考えるようになった。しかし、そのことも私には困難なことであった。心細さゆえに、私はなんとか自分の存在感を得たかった。
2)自分のそのような(混乱した)気持ちを実際に表現することはかなり勇気のいることだった。
4)もちろん話す内容は私の聞きたいことであったが、私にとっては内容そのものより、関係をも
つということの方が大事だった。
5)あの部屋で自分だけがまだ何もできないという孤独感、私はここにいていいのだろうかという
心細い気持ちを持っていたからだと思う。
26)他のワーカーの方は大体、電話の応対をするか書き物をするか、後は手を止めて考えているぐ
らいで、感情をぱっと発散させるようなことはなく、その静かな雰囲気を壊すことは恐くてできな
かったのだ。
28)仕事の邪魔をするわけにはいかなかった。
31)何でもいいからやりとりがしたかった。
30)私は、ずっと何かを話したい、聞きたいと思っていたように思う。
34)言葉が頭の中にあふれていても、実際に声に出すのは、何回も頭の中で言おうとしている言葉
を反復し、タイミングを見計らってからだった。
初めての人間関係において自己開示(self-disclosure)の欲求にかられている。しかし、そのタイミング、開示する内容やそれに対する反応が気になり、思いどうりにいかず欲求不満におちいっている。私は、声に出すことによりストレスを発散させ、同時に、今ここにいるという私の存在を示してスタッフと関わることから、自分はここにいていいのだという確信を求めている。
私は、自分の意志を確認することによって、自分でも自分がここにいていいのだという確信を得ようとした。
D:今ここにいる自分の意志
私は自分の無力感にさいなまれながらも、そのことは事実であっても、「この私からやっていこう」と自分で自分を励ました。
10)確かに私はまだ何もできない。
75)今ではやっと、言葉としてはMSWを知るようになったが、MSWが扱う分野がとても幅広く多
様であること、今私が勉強していることもほんの一部にすぎないこともわかった。
64)…この実習では、マニュアルもなければノルマもなく、やることは自分で決めていくしかないた
め、自分自身にぶちあたっている気がする。
65)「何をしなくてはならないのか」「何をしたいのか」を自分に問いかけ、それを行動していかな
くてはならないからだ。
52)私はMSWになりたい。
53)自分が自分を使えるようになり、人に喜ばれる、人の役に立つようになりたい。
67)この現場では、ここだからこそ経験できることがたくさんあるのだと思う。
68)結局私は、今のこの私からやっていくしかない。
私は、「現場では何を教わることができるのだろう」「これから一体どのような経験をすることになるのだろう」という未知なことに対して期待と不安の入り交じった感情を持っていた。しかし、それらの感情は、これからは自分自身で学び、経験していかなければならないことがわかったことにより、大きな戸惑いへと変わったのである。そのような自分に対し、私は実習をしている自分の意志、目的を再確認し、なんとかやっていこうとしている。
しかし、私はスーパーバイザーに「どうしてMSWになりたいの?」と聞かれ、自分の中に一つの矛盾点があることに気付いた。それは、「MSWになりたいという思いがあるにも関わらず、MSWそのものを私はよく知らない」ということであった。しかし、私はこのことを一つの事実としてのみとらえるにとどまり、後に深く反省することとなる(ストーリー5)。このときは、それでも自分にできることを探していた。そして、私の意欲は少し先走ってしまった。
F:患者さんとの関係が第1歩
私は、知識も技術もない自分であっても、患者さんと関わっていくことならできるかもしれないと考えた。そして、ワーカーとしての第1歩は患者さんと関係を築くことであるとした。
79)患者さんはMSWにどうしてほしいと思うだろうか。
81)自分の役割について自分が把握していることを大前提にし、基盤となる人間関係から始めていく
しかない。
82)時間もかかることだと思うが、たとえ具体的な相談とならなくとも、少しでも話せる関係である
ことが、第1歩ではないだろうか。
84)相手に受け入れてもらうためには、自分をよく知り、自分が相手を受けいれていくことだが必要
だと思う。
85)何か相談をもちかけられるようなことがあれば、自分を出してくれた患者さんに対して、何かし
ら「言って良かった」と感じてもらえることができなければならないと思う。
「私に今できることは患者さんと向かい合うこと」としたことは、私の「患者さんと向かい合いたい」という気持ちに他ならない。私は、このような思いをレポートという何より合理的な手段によって、かつ正当性をもたせてスーパーバイザーに伝えようとしたのである。しかし、自分の果たすべき役割であるMSWについて知らない、理解していないものが、MSWとして患者さんとの関係を築いていくことは当然無理である。それに、私は患者さんとの関係をインフォーマルな対人関係を築くことと同じであるかのように取り違え、わかったような考えを言って先走っている。
スーパーバイザーは、私の意図や無理解を見抜いたのだろう。スーパーバイザーから「患者さんと関わるのは一体なぜなのか」と聞かれ、私は答えにつまってしまった。
「人間関係から得られる安心感と可能性」
スーパーバイザーから患者さんとの関わりについて聞かれたことにより、私の中では「人間関係」というものが一つのキーワードとなった。MSWが患者さんと関わっていくことは事実であった。しかし、それが一体どういうことなのかわからず、自分が今までどのように人間関係を築いてきたのか、そのことにより得ているものは一体何であるのか、人間関係とは一体どのようなものであるのか…と考えを深めていった。
M:過去の人間関係
私は今まで自分で人間関係をつくってきた。そのときの私は相手を見るがゆえに相手を選び、自分にとって安全であるような関係をつくっていた。
87)私が今まで得てきた人間関係というのは、ほとんど私が選んできた、つくってきたものだった。
89)自分に出来た環境の中、つまり学校で、クラブで、旅行先などで、どこか話やすそう人、言って
みれば自分を受けとめてくれる、自分に合いそうな人を自然と選んできたように思う。
90)私から初めて話しかけるようなときには、特にどこか私と似ているところのある人を選んでいた
のではないだろうか。
218)私は、ずっと「自分のことをわかってくれない人や自分と合わない人とは、友達にならなくても
いい、自分のことをわかってくれる友達がいたらそれでいい」と思っていた。
219)いってみれば、深い人間関係だけを求め、そうなる可能性がないと思う場合はもう関係を進めよ
うとはしなかったのだと思う。
私にとって、自分と共通することろが認められる人というのは、自分の妥当性や存在そのものを確信させ、安定をもたらせてくれる大きなポイントである。
H:関わることからの安心
また、人間関係について考えていた中で「安心できることを期待し、求め、人とかかわっていく」ことが特徴としてあげられた。
94)それだけ関わりの中で自分の安全を求めているのかもしれない。
95)もちろん、人には自分とは異なるところがある。わたしは関わってきた人に、自分と異なるところが
おもしろくて、どこか自分と同じところが安心できて、そういう2つの面をバランス良くあいてに感じる。
126)思い切って打ち明けたときなどは、「また何かあれば、何でもいってきて」というようなことを言
ってもらえると、とてもほっとする。
127)「うまくいえるだろうか、自分の気持ちが伝わるだろうか、本当にこの人にいっていいのだろうか」
など、そういうなんとも言えない心細い気持ちだったのを、とても安心させてくれる一言だと思う。
128)何かに対する具体的な助言も必要だが、「いつでも弱い自分になっていい、わからなくなっても
いい」ということが自分にわかることは、耐え難い安心感になると思う。
222)その(わかりあえる深い)関係は、今でも私を支えてくれているものであるし、私に安心感を
与えてくれている。
私は、自分が不安定なときほど、人と関わることにより安心を得ようとする。安心を得たいがために人と関わりたいと思うのである。そして、その安心は自分の出発点となる。私は相手がわかってくれようとしてくれる姿勢に、信頼感を持つようになるし、受けとめてもらえるだけで、十分励みになる。
N:人間関係についての考え(関わりからの可能性)
最終的に至った考えは、人との関わりには親密さに差があるものの、関わりそのものが私にとって大切であるということであった。
217)自分がもつ人間関係というのは、どのようなものであれ財産であると思う。
220)自分のことを遠慮なく話せたり、不満や愚痴もふくめいろいろと相談にのってもらえる相手は
絶対に必要である。
221)私は、自分のことをいろいろ話すことができる、自分を出せるようになる、また相手もそうし
てくれるという関係は、ある程度お互いが分かり合える、また分かり合おうとするという意味で深
い関係だと思っている。
223)しかし、たとえ自分についてそれほど詳しく語ることがない、できない、またそうする必要も
ない関係というのも、今はとても大切なのではないかと感じている。
224)それは、誰であろうと少しでもやりとりするだけで、自分とは異なる考え方や自分の知らなか
ったことなどを知ることができるし、自分が相手にどのようなことでも何かを言うこと自体、とて
も勉強になるからだ
225)もし、自分の意見に反対されることがあったり、自分の意見が間違っていた、自分の考え方が
浅かった、相手への配慮がたりなかったなど、後悔することであっても、それはそれで、今度はど
のように言えばよいだろうかと考えることができる。
確かに、自分をどれだけ相手にみせているかは、相手を選んでのことであり、相手への信頼感や親密度を示す。しかし、その程度によって人間関係を価値づけることはできない。自分が関わろうとし、相手もそうしてくれるというということだけをみても、十分意味があり、関わり合っていけることが思いがけない可能性をもたらしてくれることもある。それは、ときに自分では向き合えなかった、また向き合いたくなかったことへと私を向かわせるかもしれない。しかし、それは自分だけではできなかったことを意味するものに他ならない。もちろん、私自身、どのような人であっても、またどこまでも受けとめることができるわけではないが、自分にも相手にその可能性をもたらすことができると信じたい。そして究極的には、人間関係は自分の存在そのものにかかわってくる。「お互いさま」であっても、メリットやデメリットだけで語れるものではない。
「患者さんに対する感情」
私は人間関係を考えながら(ストーリー2)、また自分自身を考えながら(ストーリー3)、患者さんに対するさまざまな感情を膨らませていた。
G:患者さんに対する葛藤や不安
患者さん自身の痛み、苦しみ、悲しみなどの感情を私は受けとめることができるのだろうか。どのように反応すればいいのだろうか。
98)私は患者さんを選ぶことはできない。
99) 私には異なることのほうが断然多いのだと思う。
100)それは患者さんにとっても言えるわけで、不安を感じるのは私だけではない。
101)それでも、私ととこなるということで、病気に対する痛みや不安といったものには、決定的な
ものを感じる。
103)しかし、患者さんの今そこにある痛みは、患者さん自身のものだ。
104)それを投げかけられたとき、私はどのように受けとめたらいいのだろうか。
105)私にはとうていわかり得ない気持ちをぶつけられたとき、私は言葉を失い、その場に立ち尽く
してしまうのではないだろうか。
106)患者さんにとっては、私は勝手に入りこんだ人間だ。
107)そういう私に、たとえ感情の吐露であってもできることは何であろうか。
患者さんから非難されたらどうしよう。
115)ワーカーも人間だ。
116)相手に対し不快に思うこともあれば、感情的になってしまうこともあると思う。
117)そうすれば、ただでさえ複雑で難解な制度内容について、うっかりいい間違えてしまうことも
あるだろう。また、一度一方的に非難されたり、当たられたりすれば、次から身構えてしまるし、気
も重たくなると思う。
私が、患者さんを恐れてしまったり、同情するときがあるのではないだろうか。患者さんがもってほしくないと思うような感情をもつのではないだろうか。
149)実際に、患者さんの壮絶さやどうしようもない辛さというものに出会ったとき、私はどのよう
にすればいいのだろうか。
150)例えば、皮膚が壊死してしまっていたり、どこかに奇形をもっていたり、管だらけであったり
する患者さんを、もし目の当たりに見たら、私は目を覆いたくなってしまうのではないだろうか。
151)私にはそれを直視できる自信がない。
152)正直いって、まずは「恐い」「かわいそう」というような、見た目のみに左右された感覚を
持ってしまうと思う。
162)それ(他人に振り回されてしまうこと)は十分わかっているのだが、思わず見た目で判断して
しまう私であるのに、一番そのことに苦しんでいるはずの患者さんに対し、何ができるというのだろ
うか。
緊張するがゆえに、不自然になるのではないだろうか。
183)患者さんと向かいあうとなるとそう(自然)ともいかない。
184)どんな場合でも、人に始めて出会い、関わりをもつときには、少なからず緊張するものだ。緊
張すれば体もこわばり、やりとりが不自然になる。
188)患者さんと向かい合うとき緊張しないということは、ありえないだろう。
196)「患者さんはどのような人なのだろうか」という不安…
他人である私が、本当に患者さんのことを理解し、患者さんのためになることを考え、そして実際にできるのだろうか。
241)「相手のことが、自分に一体どれだけわかるのというのか」「どれだけ相手のことを考えても、
すべて理解することなど不可能だ」「相手の苦しみを、他人である私が、一体どれだけ理解すること
ができるというのだろうか」「わからない他人であるのに私ができることがあるのだろうか」など、
そう考えると自分が人の役に立とうとしていることが、とても偉そうにおこがましく感じるし、自
分が無力であるようにも思え、そのことを認めるのもつらい。
242)でも、本当は私は無力なのかもしれない。
251)そこ(相手のために自分が何かをできるよう、相手のことを知ろうとすること)には、常に
限界があり、自分は無力感と背中合わせになっている。
おそらくこれらの私の感情は、実際に患者さんと向かい合ったとき、私を何よりゆらがすことであろう。しかし、私はこれらの感情を抜きに患者さんと向き合うことはできない。私も感情をもつ人間であることには変わりないからだ。そして、私は自分の感情や不完全さに対し、まずは事実として受けとめよう。なぜなら、この患者さんに対する感情の想像は、私にとって患者さんと向かい合う準備の第1歩だからである。
「自分を守ってしまう弱さと未熟さ」
グループ3では、関わることに対する一つの感情が特徴的であった。そしてまた、実習初期の後半において私は自分自身について主に考えるようになった。今までの自分、今の自分が一体どのような人間なのか、様々な方向から自分で自分をとらえようとした、そしてそのような自分から必要なことを探した。
I:関わることへの不安
ストーリー2において、私は人との関わりから安心感を得ていることを自覚しているが、一方で私にはそれとは正反対の、つまり関わることそのものに対する不安もあった。
私は、自分がどのように受けとめられるのか、そのことに対する相手の感情や自分の感情を想像し、不安になる。
・スタッフに対し
27)自分がどのように受けとめられるかがとても不安だったし、電話の向こうは真剣な悩みであるかも
しれず、声に出すことはためらわれた。
35)それだけ準備が必要なのは、自分が話して良いのかどうか、またその内容が受けとめられるものな
のかどうか、心配だったからだ。
・患者さんに対し
196)…「患者さんは私にどのような感情をもち、患者さんは私をどのようにとらえるのだろうか」と
いう不安がまずあげられる。
・スーパーバイザーに対し(ストーリー
4において特徴的)611)言葉にすることにあれだけ時間がかかったのは、「うまく言えるだろうか」…
・自分が弱いとき
165)私が人に何かを打ち明けるときというのは、かなり慎重になっていると思う。
166)自分がうまく言えるのかどうか、また言った内容をどうとられるのかということをとても気
にするからだ。
自分がどのように受けとめられるのかはやってみなければわからない。その未知に思いを巡らせ不安になっている。自分が傷つくことを恐れるがために、1歩相手に近づくことができず自分に閉じこもろうとするのである。また、私は「どのように受けとめられるのか」を気にするがゆえに、「どのように言うのか」、つまり「うまく言う」ということにとらわれている。
そして、私は自分自身について考えるようになった。
O:今の私について(自分を守ろうとする私)
私は、どこか自分の考えに自信がなく、また思いどおりに表現できず歯がゆい思いをする。
130)私は、自分の気持ちや考えにまとまりがつかず、うまく言葉にできなくて歯がゆい思いをする
ことが多い。
140)今でも私は人の話しを聞くことは好きなのだが、自分の意見を言うとなるとうまくいかないこ
とが多い。
141)そして、人の意見に流されやすく、自分から考えをつくり出すということがも苦手だ。
142)だから、人の悩みを聞くことようなことがあっても、自分の意見を言えなくてもどかしい思い
をすることが多々ある。
143)自分としては、その人の何か気づきとなるような考え方や見方を言えればいいと思うのだが、
それができず、相談された後私の方が悶々としてしまうこともある。
悩みがあっても、相談することに抵抗を感じることがあり、うまくいくことを取り込もうとすることもある。
167)基本的には自分が悩んでいるようなときでも、「何も言わないですむのなら、それが一番簡単だ」
と思うところがある。
170)黙っていれば、たとえ失敗したとしても、そのことを自分一人の内に収めておくことができるのだ。
172)また、うまくいきそうなときには、それを一人占めしようと独占欲がでてきて、あまり話そうとす
ることが少ないのではないだろうか。
174)こういうときの自分は少し意地悪な気がして、自分としては嫌な部分でもある。
175)私には自分の利益というものを、個人的なものにしようと考える傾向があるように思う。
177)それに、黙っていることが多いと、例えば友達などに「あの子はいつも一人でやってしまう」とか、
「一人で勝手に決めてしまっていることが多い」と捉えられ、そっけなく感じさせてしまい、自分で自分
を人から遠ざけているところがあるのかもしれない。
失敗すると感情的にもなるが、自分で乗り越えようとする。
203)何かに失敗したり、そのことがどう考えても自分に原因があると思うとやはり落ち込む。
204)他のことに対しても、やる気がなくなったり、また人に対しても多少冷たくなってしまったりする。
205)失敗したときには、もちろん後悔するものの、何とかして少しでも自分が納得できるよう、「今日は
疲れていたからだ」「失敗そのものは、まだましなほうだ」「これから気を付けよう」など、たとえ言い訳
であっても、いろいろと捉え方を変えて自分が納得しようとする。
206)そして最後には、今失敗したことを意味あるものにしようとする。
P:過去の私(未熟さに対する否定的感情)
今までの私についても考えた。
私は自分の意見を持つことが苦手で、一貫性にかけるところがあり、そのような自分が好きではなかった。
135)友達が自分の意見をしっかり言うことにとても驚き、またその意見にゆるぎない理由があって、
よく感心したのを覚えている。
137)たとえ2つの意見が対立していても、私はどちらもそれなりに納得してしまい、一体自分はどう
なのかわからなくなってしまうのだった。
138)良く言えば人に合わせやすいのだが、悪く言えば一貫性がなく八方美人でもあり、そういう自分
があまり好きではなかった。
139)自分というものがないような気がして、ますます自信がなくなり、自分からはあまり発言しない
ようにしていたと思う。
病気の壮絶さというものを目の当たりにしたことがなく、安全な中で生きてきた。
148)私は、病院のことや闘病の様子などは、テレビや雑誌でしか見たことがない。そして、そのこと
が自分とはかけ離れたところで起こっているということに安心もしていた。
154)私は、今まである意味華やかな部分しか、知らなかったのではないだろうか。そして、人間の人
間臭さや醜さ、辛さや残酷さというようなことには、あまり意識することもなかったのかもしれない。
156)それは、考えたくなかったのかもしれないし、あえて意識する必要もなかったのかもしれない。
157)見た目の世界で生きてきたというか、見られることにも見せることにも気を使って生きてきたよ
うにも思う。
158)それだけ、じぶんがどう見られるか、他人の目というものを意識していたのだろう。
自分自身の達成感や充足感を大切にしてきた。
228)私は今まで、本当に相手のために行動したことがあっただろうか。
229)たとえ、人から「ありがとう」という言葉をもらうようなことをしても、私は自分のことはさて
おき、他人に何かを捧げるように行動したことはないと思う。
230)いつも、自分のすることの中に、自分とってプラスになること、自分の充実感となることをみつ
けようとしていた。
231)何も省みず、何かのために働くということはなかったかもしれない。
「今の私」にしても、「過去の私」にしても、始めは自分の経験などをもとに書いているが、段々とテクニック的に書くようになり、自分をいかにも忠実にあばきだすようにさえなっている。すべてを自分について語る道具にし、自分を書くための道具にしてしまったのである。私が書くことにとらわれるようになったのは、レポートをスーパーバイザーとのコミュニケーションの手段にのみ利用するようになったからである。
一方、私は自分について考えるがゆえに、自分がとらえた自己から、絶えず必要なことを探し、求め、励みにしていた。
E:必要なことや目標
私が必要としたことの多くは自分自身を問うことであり、目標は私の人間性に問いかけるものであった。
自分自身をいろいろな方向から問うてみることが必要。
・患者さんに非難されたとき
119)患者さんが、そう言う部分(感情的に非難するなど)を出してくるのはなぜなのか、自分に不
適切なところはなかったかなど、気をつけていかなければならないのだと思う。
・日常的に
147)日ごろからどんなことでも、いろいろな考え方を自分から知り、自分の中に蓄積していく努力
をしていくことだと思う。
・自分の行動をきめるとき
179)これから何かしようとするときには、すぐに決めてやってしまったり、一人で抱え込もうとせ
ず、自分が何を大事にするのか、一息いれて意識した方がいいように思う。
・患者さんと向き合うことに緊張するとき
190)その(緊張から始める)ために、自分の緊張が不必要なもの、不自然なものがないかどうか確
認することが必要だ。
192)(緊張を消すことはできない)しかし、不必要であると思われるものを、ごく当り前のものと
して捉え直すことは出来ると思う。
193)そうすれば、緊張の原因を知り、自分にできることがみえてくるかもしれない。
194)たとえ自分が緊張していても、患者さんをいろいろな方向からとらえ、患者さんにも不必要な
緊張や不安を与えないようになれるぐらいに、緊張を不自然なものと受けとめられるようになること
が目標である。
201)一つの事柄に対しても、言葉を選べるくらいに表現に選択肢をもち、また適切な言葉を選び、
言えるくらい、緊張の中でも自分を柔軟に動かせられるようになることが必要だ。
・失敗したと思ったとき
212)これからも、失敗しつづけるだろうし、その度ごとに学ばなくてはならない、気づくべきこと
がたくさんあるのだと思う。
213)そして、そこから次というものも生まれてくるのだと思う。
216)その(うまくいかなかった)とき、自分がどのようにその気持ちに決着をつけるのか、そして
次につなげていくのか、それも自分の技術や力量になってくるのではないだろうか。
私の人間性に語りかける目標とすること。
・患者さんを受けとめることができる「広い」「深い」人間になりたい。
226)自分がどれだけ幅広く対応できるのか、とういことも大切なことではないか。
100)…少しでも患者さんが不安にならない、壁を作らない、そういう人間になれるよう自分を深
めていかなければならないのだと思う。
144)私が魅力的だと感じる人は、洞察力があり少し違った視点を持っている人だ。
146)もちろん、私もそういうふうになりたいと思っている。
痛みをもつ、また感情のある人間に関わっていくことで自分が生きていくことを選んだ私に一番必要なことは、自分だけにこだわり、しばられることではなく、自分に問いかけることにより自分を生かし、相手に対する関わりをいかに自分が感じ、考え、そして関わっていくのかである。私は、関わる前に必要な自分に語りかけることの必要性を確認している。
SessionHIあたりになると、私は自分について考えれば考えるほど、自分自身をどのようにも捉えることができると思うようになった。そして、今私が考えていることや書いていることを底なし沼のように感じ、息詰まるようになっていた。一体どこまで明かせばいいのか、どのように捉えればいいのか、そのこと自体にとらわれるようになった。書きさえすればそれでいいとさえ思うようになっていた。
スーパーバイザーと向かい合うのは2日に1回となり、私は、その理由を「忙しいのだろう」と勝手につじつまを合わせていた。しかし本当は違った。スーパーバイザーには、「今の鈴木さんはタマネギ状態。むいてもむいても同じ。だから2日に1回にしていた。いつまでこうやって考えているの。方向転換したほうがいい」と言われた。私は、理由が自分自身にあったことを知り、勝手に人のせいにしていた自分が本当に情けなかった。私自身、レポートで何が言いたいのかすっかりわからなくなっていたので、私は自分について考え、書くことをひとまず中断した。
「スーパーバイザーから学んだ伝える、関わることの難しさ」
秋になり、私はスーパーバイザーと自分にとても感情的になったことがあった。その頃の私は、インテークのロールプレイをスーパーバイザーにしていただいていたのだが、それが突然ぷっつりと止まってしまったからだ。そして私は、「今回は自分に何が問題なのだろう」と悶々とし、自分の気持ちを伝えることにとても時間がかかったのだった。やっとのことでうち明けたのだが、私は言いながら混乱してしまい、スーパーバイザーからレポートにするよう言われた。
W:スーパーバイザーと自分に葛藤
私からスーパーバイザーに向き合わなければならず、私はそれまでに自分に対しても、スーパーバイザーに対しても、感情をめぐらせた。そして不安やおそれに立ち向かいながらもなんとか理由を自分に納得させ、自分を奮い立たせた。
600)疑問をもちはじめたのは、ロールプレイをやってもらえなくなったからだ。
601)「どうしてロールプレイをしてもらえないのだろう」「私がはっきり意志を言わないからだろうか」
「今、私が目標とすることは患者さんと向き合うことなのに、それができないではないか」「何か私に問
題があるのだろうか」「本当は非難されているんじゃないだろうか」「あきれられているんじゃないだろ
うか」「そう自分が感じるのはどうしてなんだろう」…そんなふうに、ぐるぐると考えるようになってし
まった。
602)しかし、何も言われないのでさっぱりわからず、「何かしないと」「今、私がするべきことは何だ
ろう」と必死に自分のやることを探していた。
609)「スーパーバイザーは何を言いたいのか、なぜ何も言ってくれないのか」そんな疑問をもちながら、
「悪いところがあるならはっきり言ってほしい」と非難めいたことまで考えるようになった。
610)しかし、「これでは自分の意見がない、結局すべて他人任せにしている」と考え直し、結局自分に問
い続けるしか方法はなく、悶々としてしまうだけだった。
611)言葉にすることにあれだけ時間がかかったのは、「うまく言えるだろうか」「『言われなくてもわかっ
ている』と言われるのではないだろうか」「私がいうのはおこがましいのではないだろうか」「紙に書いた
ほうがきちんと伝わるのではないだろうか」「これから人に話してもらおうとしている人間が、自分のこと
を話せないなんて…」「これは人とかかわる練習だ!」…などと、自分の中で納得させることに懸命だった
からだ。
612)「何といわれようと、言わなければ私の意志は伝わらない」「もう、これ以上実習を無駄にできない」
という思いに至った。何もかも見透かされていそうで、でも言わないとわかってもらえないとも感じて、
足が震える思いだった。
スーパーバイザーのすべてが脅威であり、私は、そのような人に自分から立ち向かわなければならないことを恐れ、自分を責めたり、スーパーバイザーを非難したりしてなんとか逃げようとしている。しかし、どうしようもなくなって、自分の姿に患者さんの姿を、スーパーバイザーにこれから私を感じ、今していることの意味をかみしめ立ち向かったのである。本当に足の震える思いで、私は、スタッフの部屋からスーパーバイザーの部屋までのほんの数メートルを何回も行ったり来たりしていたことを覚えている。
また私は、その時に限らず常にスーパーバイザーに対して恐れや不安を感じていた。スーパーバイザーは、自分の盲点になっていること、自分が本当は向き合いたくないとして無意識に見て見ぬふりをしていたことなどに、いつも私を向かわしめたからだ。
512)私は、それ(将来のワーカーに対するスーパーバイザーとしての真剣さ)がわかればわかるほど、
自分はこれでいいのだろうか、と感じていた。
513)そして、私はスーパーバイザーに向き合うと、自分をさらけだすがゆえに自分の至らなさや考えの
浅さに気がつくことが多く、情けなくなることが多々あった。
私は、スーパーバイザーと向かい合うと「どうじて自分で気づくことができなかったのだろう」「どうして自分はこうなのだろう」と自責の念にかられることが多く、それをとても情けなく、歯がゆく思っている。スーパーバイザーに対する不安というよりも、自分では認識できなかった自分の至らなさを知ることに対する恐れである。
U:教えてもらうことに対するあせり
私はこの実習が将来の私の土台となると考えていた。そして、私の実習に対する究極的な目的は、将来自分自身が現場に出たときの私に必要な姿勢、自らが学ぶ姿勢を身につけることであった。しかし、このような意気込みは私にあせりをも生み出した。
私は、教えてもらうこと自体、もしかしたら今しかできないことかもしれないとあせっていた。
615)これからどこか病院に就職して、そこできちんと教育してもらえるかわからない。
616)どれだけ、意気込んでいようと経験がないことには変わりなく、それには、経験のある人から
教えてもらわなくては仕方がない。
617)しかし、そこできちんと教えてもらうことができるだろうか。
618)それがわからないなら、今目の前に確かな人がいるのだから、その人から教わっておかなくて
は、これは貴重な時間だ。
619)今のうちに…そんな風に、あせっていたのだと思う。
実習先を探すことが困難な状況にある今、実習ができるというそのこと自体が非常に貴重なことになる。また、現場が実習生を受け入れることができることは現場の能力に他ならず、その数か少ないことは、現場の養成に対する能力が問われることつながる。そのことを私は心配し、あせっている。そして、私はスーパーバイザーを自分にとりこもうとし、自分に余裕をなくしている。
また、グループ4で特徴的だったものは、私が悩みや苦しみをうちあけるときの葛藤であった。
K:自分の至らなさが情けない
136)そして、自分の思考の浅さを目の当たりにして、よく自己嫌悪に陥ったものだ。
J:苦しんでいるという事実を知って欲しい
24)教えてもらうまでいかなくとも、せめて、自分が今ここで苦しんでいることを知ってほしい
という気持ちがあったように思う。
521)どのようなことであれ、私が悩んでいるという事実をわかってもらいたいなどと考えるのは
ただの甘えなのだろうか。
L:弱音や都合の悪いことは言いたくない
122)できることなら自分は強くありたいし、弱音も吐きたくない。
123)また、自分が間違っているとも思いたくない。
169)当然、自分にとって都合の悪いことは、できるだけ人に知られたくないし、簡単に済ませたい。
523)言えばなにより自分自身のぐちになってしまうことは明らかであったし、そんな情けないこと
をとても自分からすることはできなかった。
私には自分の考えをもつこと自体、苦手とするところがあり、そのことで自分に自信をなくしていることが多い。自分を客観的に見るからだけでなく、自分に自信がないから、自分が苦しんでいると言うことも、弱音を吐くということにもなかなかできずにいる。また、そのために私は自分を人に伝えることに臆病になっているところがある。
「実習に対する葛藤
−学校と現場の狭間で−」
ロールプレイの中断は、私に大きな影響をあたえ、実習そのものに対する私の感情を引き起こした。そして私は、それをもとにそれまでの実習を振り返り反省することとなった。しかし、私は自分の問題を学生の問題に普遍化させ、次第に学校や先生に対し思いを募らせるようになった。
Q:実習における自分の弱音(わからないと言えなかった私)
実習における自分の弱音は、私がそれまで深く向き合うことのなかった、実習そのものに対する自分の感情であった。
私は実習がわからなかった。わからないまま実習を始めてしまった。そして、私はそのことに見て見ぬふりをしてきた。
503)特に始めは、不安で不安でたまらなかった。
504)自分の自由にさせてもらっても、私には何をどうすればいいのかさっぱりわからなかったからだ。
事実私はSession@においてその不安を書いている。
>>49)何も出来ないから、何もわかっていないから、自分がここで何をしているのか、
>>何をしなくてはならないのか、わからなくなってしまいそうになる。
>>50)正直いって、何をどう積極的に動いていいのか、それすらも不安だ。
私には怖いながらもスーパーバイザーに依存することろがあった。しかし、依存しないと実習ができないこともおかしいとわかっていた。
505)本当は、スーパーバイザーと向き合うこと自体が恐くなることきもあった。
506)私からスーパーバイザーに話さなければならなかったときははおさらそうだった。
507)しかし、スーパーバイザーとの関わりがなければ、自分が実習を実感てきないくらい、自分が何
をしているのかわからなくなることもあった。
603)本当はわかっていたのかもしれないし、何かすることで忘れようとしていたのかもしれない。
604)何かをやってもらわないと実習を実感できないこと、でも自分からは何もできないこと、何を
すればいいのかもわからないこと、自分で実習を希望したにもかかわらず、何をしたいのか言えない
自分の矛盾…。
605)このことに向き合えなかったのは、わからない自分を認めることになるからだった。
「わからない」ということに気づくことは出発点であっても、「わからない」自分がわかってしまうだけで、解決にはならない。だからこそ、「実習がわからない」という問いは「なぜ実習に来ているのか」という自分への問いになる。それも「わからない」というのであれば、私は、自分から実習を希望している自分と矛盾をおこし、実習自体ができなくなってしまう。私はそのことを恐れ、ずっと逃げていたのである。
結局私は、終盤になって「わからない」自分に向き合うことになり、「わからない」理由を探すようになった。
R:MSWになりたい理由について反省(憧れによる安易な選択)
私は
MSWそのものについてよく知らなかった。ソーシャルワーカーという言葉に、何か人のためになりそうな漠然とした憧れをもっていた。そして、MSWになることに安易ささえ感じていた。262)ワーカーになろうと思ったのは、MSWについて知っていたからではなかった。
ストーリー2で書いたように、このことはSessionBにおいて本当は気づいていた。
>>71)私は病院実習を希望しておきながら、MSWについて全く知らなかったのではない
>>だろうか。何をするのかよくわからないのに、なぜ、MSWになろうとしたのだろうか。
>>72)私は、「ソーシャルワーカー」という言葉から、何となく聞こえの良い響きを感じていた。
>>73)人とは違う聞きなれない職業であること、また何かとても「人のため」になるような
>>気がして、自分自身が人の役に立つことに漠然と憧れを感じたのだと思う。
>>74)そして、ワーカーの中でも病院を選んだのは、病院にもワーカーが存在することを知り、
>>聞きなれないMSWという言葉に、ここでは人が足りないのではないだろうか、その分なり
>>やすいのではないだろうかと、MSWそのものについては深く考えることなく希望するよう
>>になったと思う。
266)「その中でワーカーを置いている病院がどれだけあるのか」など、全く考えにも及ばなかったのである。
268)ワーカーという人と向き合って仕事をすることへの憧れから、ワーカーになろうと思った。
269)「自分を役立てたい」という思いも、相手の見えていないあくまで自分を基点にしたものだった。
「自分を役立てたい」ということに問題であるわけではない。他人にしてあげたい気持ちには、自分が満たされなく思っていたり、自分の願望や劣等感があり、自分が不完全であることに気づかざるをえない側面がある。もちろん、それを認めることはつらい。しかし、漠然としたままで現場に入ってしまったことが、私を戸惑わせ、実習を困難にしたことは事実である。なぜなら、私は目標そのものを自分でつくりだしていくことに慣れておらず、自分がやっていくことを自分で具体的に決めることがなかなかできなかったからである。
S:実習での自分の問題点(無理解、無自覚と受け身的な姿勢)
私は、実習についてふりかえり問題点を考えた。
MSW
について知らなかったのだから、実習前の私は、MSWに必要な知識に対して鈍感なところがあった。医療についての知識は全くの皆無に等しい状態だった。299)病気が一体人にどういった影響を与えるのか、さっぱりわかっていなかった。
300)医療については全くの無知の状態だった。
303)MSWも知らないし、医療について関心があったわけではなかったので、医療についての授業よ
りも他の興味あるものを履修していた。
「
MSWになりたい」という思いだけで実習を始めたので、受け身的であったし、具体的な実習内容や目的に無自覚であった。258)本当は実習を始めたときから、私はそれ(何がしたいのか)を自覚できていなかった。
271)何が何だかわからないまま、とりあえず現場を知ろうというだけで実習を始めてしまった
271)それなのに、何が何だかわからないまま、とりあえず現場を知ろうというだけで実習を始めて
しまったのだから、まず私は「MSWについては何も知らないのに、MSWになりたいといっている」
という矛盾にぶつかり、知らないのだから当然「何をしたいのか」自分で言うことさえできなかった。
275)やはり受け身の姿勢であったと思う。
604)どんなときにも、「行けばなんとかなるだろう」「何とかしてくれるだろう」という受け身な姿勢
が私に一貫してあった。
そして、私自身も「知らない」「わからないこと」に甘えてしまっているところがあった。
527)私自身、本当に現場でしかできないことを常にやってきたかということには疑問が残るし、今に
して思えば、自由であるがゆえに自分に甘くなってしまうときもあり、私にはたくさんの問題点があった。
このように考えると、私は、自分が現場に対しなんと失礼な実習生であったかと思い知らされる。何より空しく思うのは、思いつきのようにMSWになりたいと言い、実習を支えるはずの自分にさえ中身がなく、そこに自分がいなかったことである。そういう自分に気づきたくがないために、私は、誰かに尋ねることさえできず、随分損をしたように思う。このような自分であってもを誰かに話す勇気があれば、私は自分を把握し、自分のすべきことを見つけることができたのではないかと思うからである。
このときの私は、この自分の問題を学生の一般の問題に転化してしまった。「自分だけが特別ではないはずだ。自分にだけ問題があるのではない」と自分以外のものに目を向け、自分を防衛した。
T:実習での学生の問題点(実践や意志に対する吟味不足)
私は、学生は実践についてよく考えたり、自分のしたいことを具体的に自覚できていないので、積極的にしようにもできないと考えた。
285)歴史や理論の枠組み、アメリカの技術を知っても、学生はそれを活用するためにはどうすればいい
のかわからないのである。
286)活用するということがどういうことなのかさえわからないのだ。
287)現場に対しても、せいぜい学生は学ばせてもらう「謙虚さ」を持つことしかできないのだ。
288)しかし、現場は積極性を求める。
289)学生はそこで何ができるのか、何がしたいのかさえはっきり自覚できていないのに。
290)もし、今学生に「何がしたいのですか?」ときくと、「何ができるのですか」「何をさせてもらえる
のですか?」と大半が答えるであろう。
そして、私は学校への不満を募らせた。
Y:学校、先生に対する不満(実習は大学教育のもとに行われているはずである)
学校が実習の依頼だけし、実習中の学生には関与しようとしなかった。実習前の教育も十分とは思えず、学校が実習をどのように考えているのかわからず、私は納得できなかった。
284)実習をする前に、実習をするために、学生は何を学んでおかなければならないのか、そこがあまり
に欠落しているように思うのだ。
309)学校は実習をどのようにみているのか。
307)実習内容は、現場にまかせっきりになっている。
308)実習中に学生が何をして、どのような状態なのかということについては、学生が働きかけない限り
全く関与しない。
524)一体誰に言えるというのだろうか。病院を紹介してくれた先生は、紹介だけになってしまって
いるし、今年の病院実習をまとめている先生を私は実際によく知らないし、はっきりいって自分をさ
らけだせるほどの信頼関係にある先生はいなかった。
525)唯一、本当に困ったときには非常勤の先生に聞いてもらうことがあったくらいだ。
526)大学の先生は、少なくとも先生からわかってくれようとしてくれただろうか。
528)そういったこと(実習での反省点)に関しても、自分で問いただしていくことももちろん必要
だと思うが、そのときに気づかせてくれてもよかったのではないだろうか。
529)わかっていてもできなかったり、どうすればいいのかわからなくなってしまうこともある。
534)実習中にでも、客観的な意見を聞くことができれば、私はもっともっと実習を意義あるものに
できたのではないだろうか。
536)実習生の数が増え一人一人に対応しきれないことや、先生自身の研究、大学での仕事、社会的
活動などに忙しいこともよくわかる。
530)どうして、依頼だけして学生を野放しにしているのだろう。
531)実習を委ねることが、信頼を示す方法なのだろうか。
532)体験することが大事であるなら、一人一人の経験がかけがえのないものなら、その体験に対し、
実際に体験している間にどうして目をむけてくれないのだろうか。
Z:実習に対する疑問(今の実習はこのままでいいのだろうか)
最終的に私は、「実習において互いに意思疎通ができていないのではないか。今の実習は本当にあるべき実習なのだろうか」という疑問を持つに至った。
292)学校も現場も学生もすべてがかみ合っていないという気がしてならない。
312)大学はどのように考えているのか、そしてそれが現場に伝わっているのか。
313)学生に伝わっているのか。
536)実習が今のままで本当にいいのだろうか。
私は、声をあげることが自分の問題に向き合うことになるゆえに、実際にはできず、次第に学校への不満を募らせている。しかし、その不満にもはけ口がなく、実習について考えることにより、自分の感情を処理しようとしたのである。そうして、私はいつのまにか自分自身に語りかけることをしなくなったのである。
◆◇◆ストーリー5−2◆◇◆
「実習生だからこそ抱いた感情」
私が本当に言いたかったことは、学校に対する不満だけではなかった。私は自分自身に何が言いたいのかをよく考えてみた。そこには、スーパーバイザーに対する、自分に対する、先生に対する、私の本当の感情があった。
V:スーパーバイザーへの尊敬の念
スーパーバイザーは、私自身を将来MSWになる者として真剣に、向き合ってくださった。
509)スーパーバイザーの方は、ワーカーとしての確固たる理念をもっておられ、これからの目標とな
るほど尊敬するべきすばらしい方であったし、私はスーパーバイザーから非難されたことも、否定され
たこともなかった。
510)実際、励ましをうけたし、私がどのようなことを言おうと真摯に向き合い、とても大切なことば
かり話してくださった。
511)それは、私が将来ワーカーになることを前提とした、とても真剣なものだった。
何より実習を支えたのは、スーパーバイザーの私に対する姿勢である。たとえ厳しいものであっても、厳しさゆえに私はスーパーバイザーを信じることができたからだ。厳しいといっても何から何まで、指示され、注意されていたのではない。全く逆である。すべてが自分に委ねられ、それゆえに自分が問われる、そういう厳しさだったのだ。しかし、実習が自由であったということも、自分に対する無関心や放任ではなく、これから患者さんと向き合うとき、私は自分と患者さんとの関わりにおいて自由であり、そのような中で自分は一体どうするのか、どのように責任をもち、自分を問うのか、そのことに通じる根拠のあるものであったと私は確信している。
X:厳しさに対する葛藤
情けない自分に向き合うことはつらかった。私が実習の厳しさから学んだことは、はかりしれないほど大切なことばかりであったが、つらく、しんどいことには変わりなく、私は悩んでいた。
515)しかし、それ(スーパーバイザーの前で自分をさらけだすがゆえにに気付くことになる自分の
至らなさ)は自分の問題であり、だからこそ自分でしっかり向き合わないといけない、そうでなけれ
ば結局は解決しない、それがわかるだけに声を上げることができなかった。
516)本当はしんどかったしつらかった。
517)ただ単に、そういった厳しさが嫌だったわけではない。
518)これから、私が向き合うだろう患者さんはおそらくもっと、もっと、いばらの道を歩んできて
いるのだろうし、そのような厳しさに向き合うことこそが実習なのだということも十分わかっていた。
519)その厳しさから、私はワーカーになることの重みも感じていた。
520)しかし、どのようなことであれ、必要なことであれ、当然なことであれ、私が今、そういったこ
とで悩んでいるということは事実だった。
私は、自分の問題や弱さ、欠点、情けなさと向き合うことから、これから自分がしていくことが一体どういうことなのか、ということを体験している。また、弱い、至らない、どうしようもなく情けない自分ではあってもスーパーバイザーがいなければ、私は向き合うことさえできなかったことも事実である。私の悩みやつらさは、他人にとってはそれほど問題とされることではないかもしれない。しかし、そのことからも私は、たとえ自分にとってはそれほどには思えないことでも、他人にとっては痛み、苦しみであり、それを何より苦しんでいるのはその人自身なのだということを、身をもって知ったといえる。
α:先生にわかってもらいたい
いくら必要なことであるとわかっていても、私にとっては真剣な悩みであった。そして、そのような自分をわかってもらいたかった。
500)私はただ、大学の先生に自分が実習でどのようなことをやり、どのようなことで悩んでいるの
かを知ってほしかった。
502)ただ、ただ、私をわかってもらいたかった。
542)そこ(教育の実践家としての姿勢)の中に一学生として教授とのふれあいを求めている。
545)また、実習をしなければ、おそらくこれほど教育を、先生を求めたことはなかっただろうと思う。
私は、自分がこのような感情を持ち、表現したことをやはりふがいなくも思う。「このような感情はただの甘えにすぎないのではないだろうか」「結局他人に頼っているのではないだろうか」「わかってもらいたいと感じることも実習で学ぶべきことではないだろうか」と思うからだ。それに、実際私はひとりぼっちだったわけでも、励ましがなかったわけでもない。「私のほうこそ、わかってもらおうとはしていなかった」「その可能性に目を背けていた」「自分自身の問題と向き合うことを恐れていた」とも思う。何より、このような形になったことは私の臆病さに他ならない。
β:先生に教育を実践してほしい
そして、私が学生として一ついえることは、先生自身の教育者としての姿勢であるという考えに至った。
537)学生は、ただ実践的カリキュラムやメディアを駆使した<おもしろい>授業を求めているの
ではない。
538)学生は、たとえマスプロ教育で一人の先生対大勢の学生であろうと、必ずどのように学生に語
りかけるか、授業に対する、学生に対する態度を通し先生自身をみている。
539)どのように有名で権威のある教授であれ、一人一人の学生が教育者としての先生自身を必ず感
じている。
540)もちろん、学生にも問題はある。
541)それでも学生は、教育の実践家としての姿勢を必ず感じるものだと思う。
先生の伝えよう、語ろうとする姿勢があってこそ、学生は授業に耳を傾け、自分の問題と向かい合い、自ら学ぶ力を身につけるであろう。学生は、自分に語りかけてくれる先生を求めている。もちろん、すべての学生がこのように考えているとは言えないが、私が今、学生として感じていることは事実である。