第二節
在日韓国・朝鮮人の法的地位の推移「法的地位とは、日本に滞在、定住、永住している在日外国人の法制度におけるさまざまな捉え方を総体として表現している語句である。」 注1:) 在日韓国・朝鮮人の法的地位は長い間、不安定なものだった。いいかえれば「在日」のの人たちはその歴史的経緯にもかかわらず安心して日本に住むことさえもできなかったのである。ここでは1952年のサンフランシコ平和条約制定に伴って「日本人」から「外国人」となった「在日」の法的地位の推移を表1を参考に説明していく。
注1:)研究代表者 庄谷 怜子「大都市のエスニック・コミュニティにおける生活構造と福祉の課題」
(大阪府立大学社会福祉学部 平成7年6月) P2 L1
「在日」の人たちは日韓併合後、日本の植民地政策のもとで「大日本帝国臣民」すなわち日本人扱いとなっていたが、終戦後の
1947年の勅令によって当分の間、外国人扱いとなった。「この勅令は翌日の憲法施行日の前日であったことから、憲法上その人権が保障される日本国民とそうでない者をわけようとする意図が明らかであった。」 注2:)1952年、サンフランシスコ講和条約発効により「在日」の日本国籍離脱は明確なものとなった。このことは同時に一般外国人と同じく出入国管理令、外国人登録法の対象となることを意味していた。だが急に外国人になったからといってすべての「在日」を何らかの在留資格に振り分けることは不可能だった。そこで政府は同日付で日本国籍を離脱した者と1945年9月3日(日本の降伏文書調印の日)以降に生まれた子は「別に法律で定めるところにより、その者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き日本に在留できる」とした。この法律は「法126」と略され、その子供は「法126の子」とされた。「しかし一方では外国人登録法の強制退去は適用され、安定した在留状況とはとてもいえなかった。解放後、いったん朝鮮半島へ帰国したものの、生活の見通しがたたなかったり、日本に残してきた家族・親族と再び一緒に暮らそうと舞い戻ってきた人にはこの法は適用されなかった。」 注3:)
注
2:)仲尾 宏 「Q&A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」(明石書店 1997年8月30日) P125 L10〜11注
3:)仲尾 宏 「Q&A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」(明石書店 1997年8月30日) P126 L5〜8
1965
年、日韓基本条約が締結され、日本政府は韓国政府を朝鮮半島における唯一の合法政府と認めた。その法的地位協定に基づいて「協定永住」という新しい永住許可制度ができた。これは韓国籍を持った人にのみ25年間の在留を認めるとしたもので、韓国国民で1966年から5年間で申請した者とその子供に「協定永住」権が与えられた。しかし3世については、25年後の1991年までに再協議して決めるとした。(いわゆる91年問題)なお協定永住者には、入管令の「退去強制事由」などについて一定の優遇措置が与えられた。しかしこれらはすべて韓国国籍者に限定されたため、「在日」の間に分断が生じる結果となった。「多くの『在日』の人々は韓国籍を取得し、外国人登録証の国籍条項を『韓国』に変更した。『朝鮮』のままだとその在留資格は『法務大臣の特に認めたもの』という資格で、大臣の裁量によって強制送還がいつでもできる不安定なものだった。また外国へ出国することもできず、日本への再入国もままならないという状態におかれた。」 注4:)
注
4:)仲尾 宏 「Q&A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」(明石書店 1997年8月30日)P123 L1〜4
1965
年の日韓基本条約締結から25年がたち、再び「在日」の在留権の問題が浮上してきた。その解決策として「日韓法的地位協定に基づく協議に関する覚書き」(以下「入管特例法」と略す。)が発行され、「特別永住」という在留資格が登場した。これによってはじめて「在日」の在留権が一本化されたのである。この特別永住は在留期間、在留活動に制限がなく、退去強制事由も大幅に縮少されている。1952年のサンフランシスコ講和条約発効から実に40年近くもたってようやく「在日」の安定的地位に貢献した形となった。しかしまだいくつかの問題が残されている。一つは退去強制事由がまだ残っていること、もうひとつは再入国許可の年限がなお5年以内ということである。